四章:二十二話:2
(それに第一王子様だって生きているかもしれない状況下でしょう。第一王子様が生きておられたら、太合様も公爵家も、もちろん陛下だって困らない? どこかの貴族が第一王子様の後ろ盾になっているとしたら、正当性を主張してきても、おかしくないでしょうに……)
目の前で太合と言葉を交わす陛下に緊張感はまるで見受けられない。
太合に任せきりで安堵しているというのなら、それまでだが。
足場が揺らぎかねない状況にあって、なお悠長でいられる神経には違和感を覚える。
(それだけ太合様を信用しているってことなのかな)
そう結論付けるには、どこか、何かが、噛み合わない気がした。
断片しかとらえきれていないエリンの思考は煙幕が焚かれたかのように霞がかる。
「よく仕えてくれていた者だけに残念でなりせん」
陛下の沈痛な声音が耳に届く。
エリンの脳裏にローワンが浮かんだ。
「我が公爵家に間者を送り込むなど、はなはだ許しがたいこと。だととしても、陛下。所詮あれは末端。どこかの手合いが放った雑兵にすぎません。陛下のお立場を脅かす大鼠は他におりますからね」
「母上……」
「窟から引きずり出すや、いかに……」
手にした扇を口元に寄せた太合が振り返る。
値踏みするような目を向けられ、エリンは身を竦ませた。反射的に下を向く。
(太合様はなんで私をここに連れてきたの。カーンは、私がダニエル様の婚約者だから探しているって言ってたけど……)
伯爵家からアメリアの身代わりでダニエルのもとに嫁ぐことになったのは事実だ。
しかし、出向いた初日から面と向かって出ていけと言われている。
ミドルトン伯爵家からエリンが婚約者として赴いたことまでは把握できたとしても、そこで追い出されかけたという些末な事情まで、政治の中枢にいる太合がつかんでいたとは思えない。婚約者として迎え入れられずに使用人として居座っている実態を、太合が知らないということは大いにありうる。
(使用人の私が、ダニエル様に対して、なんの役にたつというの? 私はただ屋敷にしがみついて働いているだけの、名ばかりの婚約者よ)
名ばかりの婚約者。
これほどまで的確にエリンの立場を表現する言葉はない。ないはずなのに、言葉は反転しエリンを刺した。
ずきりと胸が痛む。
目元を歪め、エリンは痛みを堪える。
(私は働きたいだけよ。働いていれば、しがみついていられるって思っただけなのよ。言うなれば保身よ。私は私が可愛いだけ)
出て行けと言われても行き場がないなか、ダニエルを見送ってすぐに大工が来た。伯爵家には戻りたくない一心で、ダニエルに認めてもらうためにも、気張って屋敷を修繕した。見違えるほど美しくなったお屋敷には執事やメイド、庭師や料理人が居て当然なのだ。下働きだっていなくては、屋敷の仕事は回らない。
(最新の調理場に、道具が揃った洗濯場があって、掃除道具も新調すれば、ここでずっと働きたいと思うものでしょう)
使用人として働きたい。それだけで満ち足りる。そう信じてきたエリンの脳裏に、何気ない光景が溢れ出す。
厨房で食べた朝食。ダニエルが選んだドレスを着た一幕。日常の食卓。果物の飾り切りで彩られたプレート。受け入れられたと噛みしめて食べた果実の甘さ。
渦を巻く記憶が体中から溢れだし、抜けてゆく。
その果てに、ダニエルの眼差しが蘇る。
優しくもあり、重たくもあった。
エリンの姿をくっきりと映す、艶っぽい濃緑色の瞳。
旅路から戻った時とは別人のような印象を受けた、その眼差しと向き合ったのは、いつであったろう。
(あれは、確か、手紙を渡しに行った時ね)
濃緑色の瞳が語り掛けてきた情念がなんなのか。
使用人として認められたと喜ぶには、行き過ぎた数々の行為が示すものがなんなのか。
弁当さえ用意してくれた意図はなんなのか。
日々の手伝いはなんのためのものなのか。
長旅から戻って以降、酒を飲むことなく、身綺麗に過ごすようになった理由はなんなのか。
一線を画そうとエリンは踏ん張る。
しかし、重なり合う記憶が束となり、心の堤を強く叩いた。
(違う! 違うわ!)
間髪入れず否定に走るエリンに、何が違うのだと自答が跳ね返る。それさえエリンは無視した。
(私は働ければそれでいいのよ。婚約者だって誰かが勝手に定めたことじゃない。私は伯爵家から出るために、アメリア様の提案に乗じただけよ)
伯爵家に居ても未来がないなか、降ってわいたチャンスを目の前にして、ダニエルの雄姿に感化され、勇気をもらって、動いた。それだけだ。他に意味なんてないのだ。
(私がダニエル様を気にするのは、あくまで使用人だからよ。使用人として至らない私が、私を許せなくて、気になるだけなのよ!)
エリンは必死に言い訳を模索する。躍起になってなにを守ろうとしているのかさえ分からないままに、浮かぶ記憶とそれに伴い浮かび上がろうとする情感を押しつぶそうと試みる。模索の最中、エリンは忘れてはいけない結論に、すがりつく思いでたどり着く。
(今、一番大事なことは! 大事なことは!
ダニエル様から預かった紐が第一王子に関するものだったってことよ!
つまり、ダニエル様は。第一王子側に立つ人だったってことなのよ!)
気がかりが頭を占領する。情念が有耶無耶になる。心底でエリンはほっとした。
(そう! 第一王子様が生きていたのよ! 伴って、今、一番大事なことは、ダニエル様が王家のいざこざに深くかかわっていたってことじゃない!)
必死に捻出した言葉をエリンは頭のなかで叫び散らかす。日々の光景は、がなる言葉に飲まれ呆気なく霧散した。
(いくら聖騎士という称号を与えられたって、ダニエル様は奴隷上がりの平民よ。いくら称号があったって、出自が出自なら、王家や公爵家にかなうわけがないじゃない。
第一王子様が捕まって、どうなるかわからないけど。そうなったら、どちらにしたって、ダニエル様は罰せられることになる。奴隷上がりの平民がお咎めなしなんてありえない!)
ダニエルの危機に気づくなり血の気が引いた。エリンの顔面が真っ青になる。
(私のせいでダニエル様が不利になる。まさか、そんな。そんなのは嫌よ!)
城の仕事もダニエルからの依頼も中途半端に投げ出しておいて、ダニエルを窮地に立たせる原因にもなるなんて、そんなの最悪の最悪。使用人としての名折れもいいところだ。
太合に捕まったのが悪かったのか。
ローワンを信じて閉じ込められた事が悪かったか。
盗人を追いかけたのが悪かったか。
そもそもダニエルに言われ城に働きに出たのが悪かったのか。
(私、どこで間違った)
今日、何度目ともなる同じ問いを自身に投げかけ、エリンは唇を薄く噛んだ。




