四章:二十二話:1
「エリンさん、お久しぶりです」
にこやかに話しかけてきた人物が誰なのか。
声はすぐさま記憶に潜む像と直結する。
シックなスーツ姿とはまた違う、華やかな刺繍が施されたコートを着る人物に、助けてもらったことは一度や二度ではない。
(どうしてここにいるの!)
驚くあまり声も出ない。
瞬きすら忘れ、エリンは目の前の人物を凝視した。
※
「この者を連れていく」
エリンの眼前、告げた太合が踵を返す。
後ろ手を掴む背後の騎士にエリンは立たされる。
歩けとばかりに背を押された。促されるまま進む。
ただちに左右に騎士が張り付くと、後ろ手を拘束する騎士の手が離れた。
エリンはさっと腕を引いた。
違和感が残る手首を胸元に寄せて、手のひらで摩る。
後ろ左右、体格の良い騎士たちから伝わる圧がひりひりと痛い。
どうやっても逃げ切れないと悟ったエリンは、なすがまま太合を追う。
角灯により淡く照らされる廊下を進んでいくと階段があった。大人しく下る。
降りきった先、浮かび出る廊下を目の当たりにするや否や、エリンは広がる光景に目を疑った。
ぽかんとなるエリンの歩みが緩む。
アーチ状の天井部、それを支える壁に埋め込まれた柱、柱の間には正方形の白い石板によるレリーフが埋め込まれている。
歩いてきた上階の面影すらない、白基調の廊下が伸びていた。
後ろの騎士より進めと声掛けされ、エリンは慌てて歩速を戻す。
叱責されるかもしれないと頭では分かっていても、左右天井が気になるエリンは、肩をすぼめ、眼球のみ動かし周囲を観察する。
薄暗く気味が悪かった上階とはうって変わり、細部に至るまで意匠が施された廊下は、空気さえも清涼で、吸い込むごとに喉が潤う。ほんのり白む廊下は、少ない光源でも先まですっと見通せた。
(こんな立派な廊下の先に、牢なんてあるわけない!)
そう確信したとしても、周囲に立つ騎士の威圧感が刺さるように痛く、目的地がどこかなどと、軽々しく聞けるような雰囲気ではない。
太合が足を止めた。
連動し、騎士たちも静止する。
左右に気を取られていたエリンは、つんのめりながら立ち止まった。
慌てて顔をあげる。
太合の肩越しに見えたのは金で縁取りされた両開きの扉だ。
(なに、あの立派な扉!)
太合の傍にいる騎士たちが進み出て、扉に手をかけた。重たい音を響かせ、扉が開かれる。
射しこむ光の眩しさに当てられたエリンは目を眇めた。逸らした顔を片手でかばう。
太合が歩を進める。
背後の騎士が再び、エリンに進めと命じた。
従順にエリンは扉をくぐる。
踏み入った床から硬質な音が鳴った。
息を吸えば瑞々しい空気が肺を満たした。
光に慣れた目をうっすら開く。
視界に飛び込んできた室内の様相にエリンは再び仰天した。
幾何学的に交差し重なり合うアーチ状の装飾が施された圧巻の天井、空間を支える細やかな彫刻が施された四隅の太い柱。見上げるほど高い位置にある真正面の高窓。その高窓から降り注ぐ陽光が、敷かれた白い石タイルに反射し、室内全体を明るく照らしだしているではないか。
(なに、ここ。まるでの上で見たホールみたいじゃない)
高窓から降り注ぐ光が、ベールのように垂れ、水面のように揺らいでいる。
たゆたう光芒の真ん中に、すらりとした男性のシルエットが浮かびあがった。
像でも置かれているのかとエリンが勘ぐった瞬間、男性が動いた。癖のある前髪を指先で軽く払う小さな所作に、エリンは既視感を覚える。
前を行く太合が足を止めた。
騎士たちも動きを止め、エリンもつられて静止した。
太合や騎士が醸す雰囲気ががらりと変わる。
変化を素肌で感じとったエリンの心臓がドクンと跳ねた。
中央に立つ男性が歩き出す。
太合が膝を折り、男性に礼を示す。
騎士たちも一斉に跪いた。
周囲の変化についていけず、立ち呆けるエリンは、太合、騎士、男性へと視線を泳がせた。
近づいてくる男性の顔は上部から射しこむ強い光でよく見えない。
(会ったことがある? まさか……)
心がさざめき、ぞわぞわする。
じっとしていることに耐えられなくなる。
(太合様が頭を垂れたのよ。そんな人、そんな人……)
太合自ら率先して礼を示す。
そんな人物が誰かなんて、考えるまでもない。
(でも、そんな人。一生会う事なんてないはずなのに……)
こめかみが痛くなる。
混乱するあまり、思考を手放しかけたその時だった。
降り注ぐ光の薄膜がとりはらわれ、男性の容姿が露わになる。
柔和な笑顔を見た瞬間、エリンの記憶の蓋は開かれた。
「エリンさん、お久しぶりです」
※
「なんで、ジルさんが……」
乾いた呟きは口内で掻き消える。
震えだしそうな身体を宥めようと、エリンは腕を摩った。
(ジルさん、あなたは何者なの)
野暮な疑問だ。太合が頭を垂れる人物など、この国に一人しかいない。
正解を忌避するエリンの耳に、頭をあげた太合の一言が刺さる。
「陛下」
知りたくなかったとエリンは口を真横に結ぶ。
太合が陛下と呼んだ人物は、紛れもなく、スリから小銭入れを取り戻し、両替商につないでくれたジルだった。
誰が想像するだろう。街中で一緒にお茶を飲み、気さくに子どもたちに語り掛けていた貴族らしき人物が王様だったなんて。
あまりの事にエリンの膝が震えた。
(思わない、思わない! ばったり道で出会った人が王様なんて、絶対に思わないわよ)
微笑を浮かべる陛下は街中で見たジルそのもの。
顔立ち、雰囲気ともども、まさに彼だ。
一緒にお茶を飲み、言葉を交わしていて、見間違うわけがない。
(王様がなんで街の真ん中をうろうろしているの!)
信じがたい事実にエリンは、瞬きすら忘れ、スカートを握りしめる。
(あっ、でも……。王様だから、王様だったから、だから、あれも、これも……)
屋敷に大工がタイミングよく現れ、ものの一月で修繕できたのも。
商家や被服店の店主が次々にやってきたのも。
必要な家具や物品がどんと手に入ったことも。
さらに突き詰めれば、エリンがミドルトン伯爵家から嫁ぐことになったのも。
なにもかも国からの要請だ!
両替商での流れるようなやり取も、ジルの正体を知っていてのことだったのかもしれない。
(ジルさん。いえ、陛下! 陛下は、私がダニエル様のところにいると初めから分かっていていたんですか!)
疑えど問えない。言葉を発せられないエリンはただただ陛下を凝視する。
その視線に気づいた陛下がエリンに微笑みかけた。
街中で会った時と同じ笑みを向けられ、エリンはひっと縮み上がる。
面白げに目を細めた陛下は、太合と向き合い、足を止めた。
「母上、御手間をかけさせ申しわけありません」
「かまいません。陛下の大事とあれば、母はなにも厭う事はありません」
「私はおろおろするばかりで……」
「陛下。気負うことなど、なにもありません。私、ならびに公爵家は、いついかなる時も陛下をお支えする所存でございます」
「ありがとうございます。幼き頃より、本当に。私は心底、母上あってこその私です」
太合に宥められ、気弱そうに陛下がはにかむ。
公爵家に依存する、母に頼りきりの腑抜けの王。
世間で言われている情けない姿そのままなのに、エリンの目にはのびのびと街中を散策するジルの面影が重なって見えた。
造花売りの少女に気さくに話しかけ、靴磨きの少年には労を報い靴を磨かせる。
新聞売りの少年からは雑談とともに新聞を購入し、ピカピカの靴でステップを踏むかのようにカフェに座れば、世慣れた様子で珈琲をオーダーし、新聞を広げ嗜む。
絵に描いたような有閑貴族。それがジルだ。
(ジルさん。いえ、陛下は、一体どんな気持ちで新聞を見ていたの。一面にご自身の話題が載っていることも少なくなかったでしょうに。
そういえば、新聞の見出しを見たとき……。公爵家のご令嬢と王様の婚約について、そっけなく答えていなかった? 答えていたわよね。世間で流れる噂に対しても、どこか諦めを帯びた返答じゃなかったかしら……。
婚約することはないと言い切ったソフィー様と、陛下の意見。一致するのね)
今日のお茶会は、ソフィーと陛下の婚約を太合が望んでいるから開かれるのだとアメリアは言っていた。太合が望むとなれば、後ろ盾である公爵家も同意しているはずではないのか。
(なんで? 家門の意向そっちのけで、二人そろって婚約を否定できるのかしら?)
意味が分からないと、エリンは口元に拳を寄せたのだった。




