三章:二十一話:1
カッとなったエリンは片手をのばした。
盗人の胸ぐらをつかもうとする直前で手を止める。
ほこりにまみれたカーンの髪がもぞもぞ動きだしかと思うと、髪の合間から蜘蛛が這い出てきた。器用な足遣いで髪の先端にへばりつく。
カーンが頭を左右に振った。
蜘蛛が地面に落ちた。
床に投げ出された蜘蛛は、角灯の光に驚き、がさがさと壁の暗がりへ逃げていった。
その間、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返すカーンは首元をおさえ、喉奥を鳴らし続けていた。
「蜘蛛の糸が、喉に入った……。気持ち悪りぃ」
うめくカーンを見かね、近寄ったエリンは「大丈夫」と声掛けし、背をさする。
一撫でされたカーンは、顔をあげるなりエリンを見た。
見返され、エリンは手を止める。
カーンがざらついた声で言った。
「ここから逃げるぞ。状況がまた変わったんだ。ここから逃げないと!」
盗人が何を言い出すかとエリンはぽかんとしてしまう。
「逃げる? あなたが? 私を、逃がす?」
意味が分からないと言いたげなエリンの声音に、カーンは渋い顔をした。
「俺がエリンさんの小銭入れを盗んで、信用できないのはわかるよ。だけど、今は細かいことに、かまっていられる時間がないんだ」
「それなら、盗んだ品を出す方が先でしょ。信用してほしいなら、盗んだ紐を返してよ」
エリンは背をさすっていた手をカーンの眼前にずいっと突き出した。
「例の品はもう持っていない。あるべき人に渡してある」
「あるべき人って?」
「知らない。俺はそう聞いているだけで、誰に渡っているかまでは知らないんだ。俺は、恩人の手足として動くことになっているだけだからさ」
「恩人って……、ローワンさん?」
「ローワンさんと帽子を被って杖を腕に引っ掛けている紳士だよ」
「ジルさん?」
やはりとエリンは思う。
子どもたちに気さくに話しているジルなら、盗人の境遇を聞いて助けようという気になってもおかしくない。ローワンに少年を助けるように、ジルが口添えした可能性だってあるかもしれない。公爵家に働きに入るとなれば、それぐらいの背景は十分考えられる。
考えられるものの、何かが引っかかる。
(ローワンさんとつながりがあるなら、カーンは明らかに公爵家側の人なはずだけど……)
エリンは喉を唸らせた。
閉じ込めたローワンは公爵家に仕えている。当然、カーンもそちら側の人だと考えるのが妥当だ。
紐を持たせたダニエルが第一王子側と仮定するなら、公爵家とは対立する。
公爵家に属する者が、エリンを閉じ込めておくのなら理にかなうというものを。
なぜ、ここにきて逃がそうとするのか。
エリンには理由がさっぱり分からなかった。
「ねえ、今回の件は、第一王子様が生きていることが関わっていると聞いたわ。使用人に過ぎない私だって、公爵家、太合様、そして陛下。このあたりの人たちにとって、第一王子様が生きていることが大ごとだってことぐらいわかるのよ」
言葉を噛みしめるごとにエリンの警戒心が増してゆく。
「私をここに閉じ込めたのはローワンさんでしょう。彼は公爵家に仕えている人じゃないの。つまり、あなただって、公爵家側の人ってことなる。つまり、第一王子様が生きていたら、困る側の人なんじゃない」
「違う、違う。ローワンさんは違うんだ。あの人は、公爵家に潜入していた人なんだよ」
「潜入?」
「そうそう。そうだよ。第一王子様が生きている証拠品を持ち込み、しかるべき人に渡すために。太合を誘い出すために。あの人は公爵家にいたんだ」
「なら、私を逃がそうとしている人って……」
「ローワンさんだよ。俺は、事前にあの人に言われていたんだ。太合にバレたら、ここに隠した二人を逃がすようにって」
「待って、話が見えない。分からないことばっかりで……」
理解が及ばず、エリンは頭が痛くなる。こめかみを押した。誰と誰が対立し、誰が味方なのか、関係が結びきれず、頭のなかで絡まり合う。
「私に紐をあずけたダニエル様が第一王子様側の人で、ローワンさんは公爵家に潜入していた人で、カーンがそのローワンさんの手足になって動いていた人ということでしょ。と、いうことは……」
まとまらない思考が縺れてゆく。
そんなエリンに向けカーンは告げる。
「そう。俺たちは基本的に第一王子様側なんだよ、最初から!」
エリンは絶句する。
「俺とエリンさんとそこに寝ている女の子。紐を渡されたのは、この三人だ。そして、集めるのは元から俺の役割だった。当初は話しかけて、小銭入れを盗んだことを謝ったうえで、渡してもらう予定だったんだけど。急遽、事情が変わって。盗むことになったんだ。太合にばれたんだよ。あんたが第一王子側の人だって」
「どこでばれるのよ。私と太合様との接点なんて……」
エリンははっとして口元に手を寄せた。
「もしかして、お茶会で気づいたの?」
太合と賓客のご令嬢をお出迎えする際に庭先で整列した一幕をエリンは思い出した。
あの時、アメリアに話しかけられ、太合を一瞬直視してしまったのは間違いない。
「でも、でもよ。あれは、ほんの数秒だったし。私はすぐにうつむいたわ。あんな瞬く間に、何を気づくというの」
落ち度が思いつかず、エリンは表情を曇らせる。
「俺が聞いたところによると、お茶会が始まってから気づいたらしい。エリンさんが聖騎士ダニエルの関係者だってことを」
「お茶会で? 私の話題が? なんで? アメリア様の話になるならわかるけど、なんで私?」
戸惑いなのかで浮かぶ疑問は、お茶会でアメリアに話しかけたと言っていたソフィーの姿が脳裏をよぎりかき消える。
(ソフィー様がアメリア様に私について色々質問して、太合様の耳にその会話が届いた可能性はあるかも……)
アメリアの立場上、ソフィーの問いには答えざるをえない。
伯爵家を出て、ダニエルのもとに行ったことを話している可能性は十分考えられる。
元凶はアメリアかもしれないと思うと、エリンは腹が立ってきた。
「なんて余計なことを! 園庭前で話しかける必要だってないのに、人のことを軽々しく知らないところで話題に出さないでほしいわ」
悶えるエリンは頭を抱え、身体を反らす。
「そこから話がこじれたんだよ。エリンさんが紐を持っているところを見られちゃいけないってことになって。スリをしていた俺が盗むことになった。どこで誰に見られているか分からない公の場で、関わりあるそぶりを見せるわけにはいかなかったから」
「そんな事情があったなんて。始めから言ってよ! あなたに紐が渡ったことが予定通りだったのなら、追いかける必要なんて一切なかったじゃない」
徒労を自覚し、エリンの身体がずっしりと重くなる。
「盗人を追いかける必要なんて、初めからなかったのね」
がっくりと肩を落とすエリンは片手を額に押し当てた。
「……私、無駄なことをしていたのね」
「無駄?」
「そうよ。あなたを追いかけたことすべて……。こんなことになるなら、職務を全うしていればよかったわ」
自嘲を浮かべるエリンが手をひらひらと降る。
「違う、違う。それも無駄じゃなかったんだ。当然、働いているものと思っていたエリンさんが、医務室に行くと言って消えていたから、太合も見つけられなくなって、時間稼ぎができたんだから。でも、ローワンさんがエリンさんを連れて行ったのを公爵家側の騎士が見ていたから、ローワンさんが問い詰められて、気づかれたんだよ。ここに隠されているって。それで今、太合がこっちに向かってきているんだ」




