三章:十七話:3
「そのせいか、古くから取引のある業者の間では、まことしやかに語られる噂があるんだ。実のところ、第一王子様は身罷られたのはなく、行方不明で、まだご遺体さえ発見されていないのではないか、と」
エリンはぎょっとして、目を剥いた。
「そんないわくつきの絵画を飾るんですか。お茶会に、夜会にと、目白押しなこの日に!」
「しょせん噂話だからね。俺たちが気にしても仕方ないことさ」
『気にしても』
その一言によりエリンは冷水を浴びせかけられた。
血の気が引き、正気に返る。
今この瞬間、一番に気にすべきは、紐の行方だと思い出した。
(ここで油を売っている時間なんてないじゃない! 王様の姿に圧倒されたからって、大事なことを疎かにして何をしているのよ。盗人を見失ってからどれだけ時間が経ったと思うの!)
一分一秒だって惜しいはずなのに信じられない。ありえないと泡を食うエリンは、両腕を大きく動かし店主に問うた。
「話の途中ですいません。私、人を探していたんです。私が出てきた扉から先に飛び出してきた人がいたはずなんです。男性です。その人がどこに行ったか、見ませんでしたか」
店主の視線が斜め上を泳ぐ。
「そういえば、飛び出してきたやつがまっすぐ抜けていって」
エリンが出てきた扉の真向かいにある同じ形の扉を、店主が振り向きざまに指さした。
「通路を挟んだ向こう側の扉に入っていったな」
「本当ですか。ありがとうございます」
礼を告げるなりエリンは走り出す。人をかき分け、反対側の扉へ向かう。
「そっちは地下に通じる廊下もあるから奥まで入れないぞ」
呼びかける店主の声は、扉へ飛びこむエリンの耳には届かなかった。
盗人を見失ったエリンは、しばらく走ってのち、やみくもに追っても意味がないと気づいた。
歩調を緩め、薄暗い廊下をとぼとぼと歩く。
だだっ広い城内だ。
当てもなく走るなど無謀でしかない。
(なんで、あの時、立ち止まったんだろう)
前王の姿を見た瞬間、足を止めずにはいられなかった。
黒髪の王様の存在感が、なぜあんなにも心に深く刺さり込んだのか。
我を忘れるほど強い衝撃が身体を突き抜けていく感覚に、なぜ襲われたのか。
まるで意味がわからなかった。
(ものすごく、よく描けている絵画だったから?)
見事な絵画ではあった。それは認める。
(それだけで、こんなに印象深いものなの?)
会ったこともない人物に、なぜ見惚れてしまったのか。
理解不能に陥る。
わだかまりが胸に痞えて、もやもやが晴れない。
(王様に会うなんて機会、あるはずないのに……)
どれだけ記憶をひっくり返しても、思い当たる糸口を拾えず、エリンは開き直る。
思考放棄し、前を向いた。
現実に立ち返れば、盗人を見失ったふがいなさに、悔しくなるばかりであった。
まっすぐ伸びる廊下を進んでいくと分かれ道に行きついた。
十字に廊下が分かれている。
どっちへいけばいいのか、見当がつかない。
(どうしよう……)
絶望に浸食され、足が重くなる。
三本の廊下をしらみつぶしで探索する時間はない。
立ち止まるエリンは俯いた。
悔しくて、スカートを握りしめる。
気落ちするエリンの耳に、コツコツと足音が聞こえてきた。
音のする方へと目を向ける。
廊下の奥がぽうっと光りだし、人影が浮き出てきた。
くっきりと輪郭が見えるようになると、見知った人物が現れ、エリンは仰天する。
「大工さん! なんでここに!」
「おお、エリンさんじゃないか。こんな裏側に何用だい」
「ちょっと頼まれごとがあって。大工さんこそ、どうしてここに?」
「俺は奥の倉庫に物品を仕舞いに行ってきたんだよ」
「じゃあ、そっちで、誰かとすれ違ったりとかは、しませんでしたか」
慎重にエリンが尋ねると、大工は首を左右に振った。
「こっちは倉庫や宝物庫があるから許可なく入れないからね。誰かとすれ違うなんてないよ」
「そうなんですか……」
となれば、エリンが来た方向も含め、二つの廊下が除外される。進むべき廊下は二方向に絞られた。
「エリンさん、迷っているのか?」
「ええ、ちょっと……」
「なら、このまま直進しちゃいけないよ。そっちは進んでも地下へ続く扉しかない。地下にあるのは、すでに使われなくなった牢だけさ。もちろん、扉には鍵がかかっているらしい。言うなれば行き止まりさ」
「地下ですか」
「そう。行くとなれば、この方向しかないよ」
大工は目の前の通路を示す。
「ありがとうございます。では、こっちに行ってみます」
「おう、暗いから気をつけてな」
すかさずエリンは走り始めた。進みながら考える。
(なんで、あの盗人は、こんな入り組んだ通路を進めるの? あの迷いのない走りっぷり。内部の状況を分かっているとしか思えないわ)
怪しい臭いがプンプンする。
お金や鍵を残したうえで、紐だけを取って逃げたのだ。
最初から事情を知っていたと考えるのが妥当だろう。
俊敏に走り去る背を思い返せば、城内の平面図を事前に見せてもらっていたと疑いたくなる。
エリンはぐっと歯噛みした。
「相当な人物が背後に隠れているってことじゃない。そういうことよね」
城内の平面図を入手できる有力者。そんな人物が紐を盗むようしむけたに違いない。
それが紐を渡してはいけない勢力であったとしたなら、彼らは本気でダニエルの邪魔をしようとしていることになるだろう。
「だとしたら、なおさら取り戻さなくちゃ!」
エリンはきっと前方を睨みつけた。




