三章:十六話:2
「なにをしているのです」
アメリアの背後から鮮烈な女性の声が飛んできた。
途端に、顎先に当てられていた扇子が引く。
素早く反転したアメリアが軽くひざを折るカーテシーを披露する。
「太合様、ご機嫌麗しゅうございます」
アメリアの言葉にエリンの背筋が凍りつく。
半秒出遅れ、顔を下げることができなかったエリンはアメリアの背越しに、豪奢なドレスを纏う女性を見てしまう。
伯爵夫人より年かさでありながら、凛とした姿勢を保つ、絵画に描かれた若かりし頃よりも、ぐっと迫力を増した太合がいた。
見下ろしてくる眼光に晒され、エリンは大慌てで視線を落とす。
威風に煽られ、膝が震えた。
心臓がけたたましく鳴り響けば、背中に油汗が滲み出てくる。
身体を縮こませたエリンは、奇しくもアメリアの背後に隠れることができ、ほっとしていた。
(あの方が太合様。この会場で、一番見てはいけない人だというのに。もう、なんてことなの! これじゃあ、後でこってり絞られるの確定じゃない。ああ、最悪。踏んだり蹴ったりもいいところだわ)
拍動がさらに増す。
エリンはぎゅっと胸を押さたくなるものの、動いてはいけないと強い意思で踏ん張った。
「我が屋敷で働いていた者がおりまして、懐かしさのあまり声をかけてしまいました」
「伯爵家では使用人とも親しくしているのですね」
「年が近かったものですから、少々接点がございました」
アメリアの猫なで声に耳を疑う。
よく言うと思ったが、物申すわけにいかないエリンは、その言い分で納得してくれますようにと祈る。
逃げられない手前、早く立ち去ってほしかった。
「懐かしい人と会ったら、思わず声をかけたくなるものですよね、伯母様。私もここにお友達がいましたら、きっと声をかけてしまいますわ」
「ソフィーったら……。本当にあなたはどこまでも無邪気な子ね」
愛らしい声が飛んでくると、刺々しかった太合の声が丸くなった。
「身分を超えたお友達なんて、素敵じゃありませんか。私は憧れてしまいます」
「可愛らしさはあなたの魅力ですけど、これから先を考えると少々心配ね」
無垢な声の主は太合と近しい人なのだろうとエリンは思った。
やり取りからも、かなり可愛がられている様子がうかがえる。
「アメリア嬢も、立ち話はほどほどに」
「はい、太合様」
エリンは上目で小道を見た。
等しい歩幅で歩を進める人影と、ふわふわとスカートを跳ねさせる、スキップを踏むかのように歩む人影が過る。
二人が通り過ぎるまで動かずにいたアメリアも、太合が通り過ぎれば動き出すに違いない。
やっと解放される。そう安堵するエリンにアメリアが囁きかけた。
「今日は公爵家の末娘、ソフィー様のお披露目も兼ねているの。婚約者をまだ定めていない王様もおみえになるかもしれないと聞かされているわ。招待された私たちは彼女のお友達候補、所詮引き立て役なのよ」
顔を伏すエリンがアメリアを盗み見る。
扇で口元を隠し園庭中央に視線を向けていたアメリアが、唐突に歩き出す。
(私の返答を必要としないなら、初めから話しかけないでほしかったわ)
不満を抱いても露わにはしない。
周囲に合わせるエリンは居住まいを正した。
アメリアが去れば、ぴりぴりと刺すように取り巻いていた空気も、徐々に薄れていくのだった。
園庭中央でのお茶会が始まると、まとめ役の侍女に先導され、エリン達は静かに場を離れた。
城内に戻り、次の仕事について侍女から説明を受ける。
賓客がつつがなく会場入りできたからか、侍女はエリンの件に触れることはなかった。
咎められる心配が杞憂に終わり、エリンはひっそりと安堵したものの、これ以上目立ちたくないと、列の最後尾に退いた。
午前同様、各部屋を掃除するため、道具を取りに移動し始める。
人とすれ違うたびに先頭を歩く侍女に倣い会釈する。
エリン達の立ち振る舞いも午前よりだいぶ様になってきた。
ホールの入り口が見えてきた。
すれ違う人に向け、侍女が会釈する。
エリンもまた軽く頭を下げようとした時だった。
「君は」
呼びかけられた感じがして、エリンは目線をあげた。
黒い立ち襟の平服を着る男性がいた。
造花売りの少女と一緒に、ジルに挨拶していた神父である。
今まさに、すれ違わんとしているところで視線が交わる。
神父もまた、ダニエルの屋敷に来てから会った人物の一人だ。
はっとしたエリンが歩調を緩めた。
ポケットに潜ませる小銭入れの重みが増した。
「お久しぶりです、神父様。ジルさんとお店でお会いしました時のこと、よく覚えております」
「ああ、そうだ。そうだ」
額を叩き、神父が笑う。
「ベイジル卿と一緒にいらっしゃった方だ。あの方が誰かと一緒にいるのは珍しいため、記憶に残っていたんですね」
神父は喉に刺さった小骨が取れたかのようなさっぱりとした表情を浮かべた。
あれっとエリンは心の内で小首をかしぐ。
「神父様も、こちらにお仕事でいらしているんですか」
探りを入れるようにエリンは慎重に問う。
「はい。セレモニーの立会人として来ております。あなたは」
「私は夜会準備のお手伝いで来ております」
「そうですか、今日は格別忙しいですからね。大変ですね。お茶会に夜会にと目白押しで。城中準備で忙しない。どこを見ても、人人人。こんな城内を見るのは久しぶりですよ」
にこにこと人好きのする笑みを神父は浮かべる。
(この反応だと、ダニエル様から預かった紐を受け取る方ではなさそうね)
エリンは、後目で仲間の隊列を確認する。まだ十分小走りで追いつけそうな距離だ。
「おっと、私の仕事はまだまだ先とはいえ、お忙しい方の足止めをしてはいけませんね」
「とんでもないです。ご挨拶できて……」
そうエリンが言いかけた時だった。とんと軽く背が押された。
バランスを崩したエリンの両腕が浮く。
半歩踏み出し、踏ん張った。辛うじて転ぶのは免れる。
「大丈夫ですか」
「ええ。誰かが背中にぶつかったようですが、なんとか……」
「急ぎ足の子がぶつかっていったんですよ。今日はたくさん人が出入りしているとはいえ、危ないですね」
「本当に……」
答えながらエリンは通路を見た。
人を避けながら男が背を向け去ってゆく。
段々と歩速をあげ、今まさに駆けださんと肘を張った。
何処かで見たことがある後ろ姿であった。
こみ上げる既視感に触発され、エリンの記憶が引き上げられる。
頭に浮かんだのは、商店街の果物屋で、小銭入れをかっぱらって逃げていった男の背だった。
(まさか!)
閃いたエリンは青ざめる。
真っ先にポケットを探った。
手を突っ込めど、なかは空っぽ。
肝心の小銭入れがない!
記憶違いかと肝を冷やしたエリンが反対のポケットを叩いた。
当然、何も入っていない!
ざわっとエリンは総毛立った。




