二章:十五話:4
満足に浸り、ぼうっとする。
ぼんやりする意識のなかで、エリンははたと気づいた。
ダニエルの屋敷で暮らすようになってから出会った人と何人も城内ですれ違っていることに。
大工。造花売りの少女。商家の店主。ジルの側近。そして、果物屋の店主。
心中で指折り数えれば、かなりいる。
いったい誰から声をかけられるのか。予想もできない人数だ。
(ジルさんに仕えている方もいたのなら、ジルさん本人もいたりして。あの方、貴族だし……。だけど、みんな仕事中なのよね。私も含めて)
移動し、掃除し、また移動を繰り返し、厨房の下働きと休む間もなく働いていた午前を振り返ると、途中で誰かに声をかけられても挨拶をかわす余裕はない。
(この状況で、どうやって紐を渡せばいいのかしら)
秘密の依頼なのだから、あからさまに声をかけるはずがない。
なにか渡すきっかけとなる言葉かけもあるはずだ。
それには挨拶だけでなく、ある程度の会話も必要だろう。
移動中に声をかけられても立ち話は難しい。ならば、誰かが呼びつけにくるのだろうか。
誰が? と、エリンは小首を傾ぐ。
秘密裏に運ぶのだ。
そんなあからさまな呼び出しは考えられない。
なにより今まで見てきた人たちは平民ばかり。
しいて違うとあげるなら、ジルの側近ぐらいだろう。
もしかしたらジルも城内にいるのかもしれない。
そうなれば、一番可能性が高いのはジルだろうか。
しかし、まだ城内で見かけてはいない。
口を折り曲げ、エリンは考え込む。
(持ち場をひっそり離れて、渡す人を探しに行く?)
中途半端に仕事を投げ出すのは性分に反する。なにより、紐を渡してからは働くことをダニエルは推奨していた。持ち場を離れるなんて論外だ。
この状況下で、どうやって紐を渡すチャンスがくるのか。エリンは皆目見当がつかなかった。
考えても無駄とエリンは肩の力を抜く。諦めめいた表情を浮かべる。
(ダニエル様を信じて、声がかかるのを待つしかないわね)
そうエリンが開き直ったところで、大部屋の扉が開いた。昼休みが終わるにはまだ早い。昼食中の面々がざわざわし始める。
突如入ってきたのは侍女長と五班担当の侍女だった。
食べながら聞いてくださいと前置きし、侍女長が話しだす。
「申し訳ないですが、昼休みを少々早く切り上げていただきます。予定外の仕事をお願いすることになりました。
これより始まりますお茶会にて、賓客をお出迎えする人員が不足しております。人数を揃えるため、園庭に来てもらいたいのです」
エリンたちの頭のなかで、ぽわんと想像の花が咲く。
花々咲き誇る園庭。色とりどりのドレスを纏ったお茶会の賓客たる淑女たち。多種多様な菓子と切り花を飾った華やかなテーブル。薫り高い各種紅茶。などなど。
平民では見ることも許されない貴族のお茶会を遠目からでも眺めることができる!
そう気づいたエリン達が、わっと一気に色めき立った。
エリンが昼食をとり始めた同時刻。
屋敷にいるダニエルは洗面場の大鏡の前にいた。
椅子に腰かけたダニエルの背後には、被服店の店主が立っている。
店主は鞄をあげ、黒々とした大判な布地に、先の細い鋏と梳き櫛を取り出した。
「では、店主。頼む」
「かしこまりました。ご希望はございますか」
「特にない。こざっぱりすればいい」
言葉少なのやり取りを皮切りに、店主がダニエルの身体を布地で覆う。手にした櫛で伸びた髪を梳き、まずは長い襟足に鋏を入れた。
「被服店の店主が、まさか髪まで切れるとはな」
「私が最初についた職業は理容師でした。その後、いくつかの職を転々としまして、現在の店を開いております」
「転職しながら、元孤児という履歴を薄めていったのだな」
「ご縁に恵まれただけでございます」
恭しく物申す店主はダニエルの髪を切り続ける。
長かった黒髪が、ばさばさと床に落ちてゆく。
「エリンに例の品を運ばせる気はなかったんだ」
「存じております」
「かといって、婚約者という肩書を負わせたまま一人にしておくことも……」
「木を隠すなら森ということでございましょう」
「巻き込みたくはないからな。言いくるめられたようで面白くはないが、あいつの案に一枚噛むことにした」
「最良のご判断かと思います」
「仕事は好きだろうし、よく働くから目立つこともないだろう。うってつけと言えばうってつけだ。が、仕事しか眼中にないというのも、なっ……」
「ままなりませんな」
櫛と鋏を置いた店主が、今度は石鹸で泡を立て始める。指示を受けたダニエルが顎を上向かせた。髭を覆うように口周りに泡を載せた店主が、剃刀を手にし髭を剃り始める。口元を覆う髭は瞬く間に泡とともに削がれていった。
泡が口元からすっかりなくなると、店主はダニエルを覆っていた布を取り払う。立ち上がったダニエルは、奇麗になった顔を見て、一瞬眉をしかめた。
流水を救い上げ、ざばざばと顔に冷水をぶっかけ、ゆすいでいく。
ひとしきり洗い終えると水滴が滴る顔を大鏡に映し、ダニエルは顎に手をかけて、右に左に傾け始めた。久方ぶりに露わになった素顔を眺めまわす。
最後にダニエルは、
「まったく、嫌になるほど父親にそっくりだな」
と、忌々し気に吐き捨てた。




