二章:十四話:3
逃げたとしても首都において帰る場所はこの屋敷しかない。
終止符を打つために、いずれは戻るべきだと頭では分かっていた。
分かっていたのだ。
しかし、いざ戻ってみれば、ただそれを受け入れれば良いというものではなかった。
長年放置された屋敷は住めるような状態ではなくなっていた。
それだけでなく、蜘蛛の子を散らすように人が去った周辺も酷いありさまで、空き家ばかり目立つゴーストタウンと変わり果てていた。
修繕を勧めてくるのも当然であったが、どうしてもすぐに動く気にはなれなかった。
邸内に足を踏み入れれば、あの夜の痕跡がどこかしこにも残っていた。床、窓枠、壁、天井、カーテンなど。一つひとつの傷すべてが痛ましく、まざまざと逃亡の夜を想起させた。
屋敷内を歩けば、死の残影が重なって見える始末。
悲鳴が聞こえ、怒声が飛ぶ。
幻だと分かっていても耳を塞がずにはいられなかった。
心底に沈み込んでいた罪悪感が、ありもしない残響に呼び覚まされる。
苛めば、気持ちはずんと落ち込んだ。
かと思えば、陽光に照らされた室内に、母や使用人たちと楽しく過ごした思い出が透けて見えた。
厨房で鍋をふるい、ケーキやタルトに果物を飾る。
庭で犬と転げまわり、母とお喋りしながら、お菓子と紅茶に舌鼓を打つ。
他愛無い日々の情景に手を伸ばす。
帰れるならば帰りたいと思った。
幻を求め、縋るように空を掻いた。
キラキラとした思い出に救い上げられては、朽ちた惨状が目に留まり、また落とされる。
昼と夜を繰り返すかのように、両極端な記憶が浮き沈みを繰り返した。
段々と身動きが取れなくなった。
罪を見出す痕跡をどうすることもできないまま、底なし沼に飲み込まれるように滅入っていく。
毎夜、悪夢にうなされるようになったのもこの頃からだ。
すべてのことを自分のせいにする年齢でもないくせに、感傷に浸り込むことがやめられなくなった。自虐に浸り、食事をとる気も失せ、酒で腹を満たす日々を送るようになっていく。
そんな最中、エリンはやってきた。
褒賞の一つだと言われたが、婚約者なんて迷惑千万。追い出すまでもなく、清い暮らししか知らない令嬢なぞ、あっという間に逃げ去るだろうと見下していた。
エリンが訪ねていった頃のダニエルは、荒みきっており、他者を慮る余裕など欠片もなかったのだ。
エリンを置き去りにして旅立ち、戻った翌日、悪夢にうなされ午睡から目覚めた。
忌まわしい過去の悪夢を見るのは日常茶飯事であったが、寝起きにエリンをメイドと見間違えたその一瞬、ほんの一瞬、小奇麗な室内を背景に、忌まわしい過去が初めからなかったかのような錯覚にとらわれた。
心配そうに見つめてくるエリンを見て、過去を引きずる現実に引き戻された。
過去に囚われるダニエルは訊ねずにはいられなかった。
過去を微塵も感じさせず、淡々と仕事をこなすエリンに対し、なぜそんなにも心軽やかに生きられるのか、と。
突き上げてくる衝動にまかせて、詰め寄るように、どうして誰も恨まずにいられるのかと投げかければ、あとは堰を切ったように疑問をぶつけていた。
ひどい目にあったのだから、恨むのは当然と言ってくれと心のどこかで願っていた。
跳ね返ってきた答えは思いもよらないものだった。
『恨んでいても前に進めない』
欲しい答えを求めて、追いすがったというのに、完膚なきまでに打ちのめされた。
※
屋敷を見上げるダニエルの瞳はうっすらと濡れていた。
頬がひくつき、目じりが湿る。
今にも涙がこぼれそうになり上を向いた。
復讐せよと囁く影を背後にひたりと張り付かせて長らく生きてきたダニエルは、すべてを失った一夜こそ、身体に巻き付く怨嗟の鎖を生む起源と思っていた。
しかし、エリンの言葉によって気づかされた。
エリンによって修繕された屋敷によって、いい加減に目を覚ませと諭された。
命を落とした人たちは皆優しく温厚な性格であった。
死してなおダニエルに呪詛をかけるとは到底考えられない。
母だって同じだ。
恨みを晴らせと働きかけるなんて、気が弱く穏やかな母に限ってありえない。
では、ひたりと張り付く影はなんなのか……。
怨嗟の鎖をたどってみれば、無力さに打ちひしがれて、泣き続ける子どもがいた。
親しい人や最愛の母を犠牲にして生き伸びたことを受け入れられなかった幼心である。
他者を犠牲にして生き続ける罪悪感ともいえるかもしれない。
恨む相手より矛先を己に向けたのは、子どもであったがために、それしかできなかっただけであろう。
ひと時の健忘も、罪悪感の怨嗟への変化も、すべては子どもが生きるために取った手段だったに違いない。
傷ついた幼心をさらに傷つけないために、応急的に鎖で己を縛り、守っていたのだろう。
強襲により人が亡くなったそれさえも自分のせいにしてしまう子ども心が姿を変え、影となり纏わりついていたのだ。
愛すべきは己であり、労わるべきは己であった。
辛かったろう。
苦しかったろう。
哀しかったろう。
微かに残る嘆く幼心に語り掛ける。
抱きしめるように両腕をさすった。
雲一つない空を見上げ、眩しさに目を細める。
母と暮らした屋敷が透き通るような青空を背景に佇んでいた。
(こんなに穏やかな気持ちで、ここに立てる日がくるとは。過去と向き合える日がこようとは)
今、空がこんなにも澄んで見えるのは、幼心を受け入れ、自責が雪がれたからだ。
息を吐く。
深々と刺さった悲哀の杭が青空に溶けて消えていく様が見える気がした。
「エリン……」
いつしか、過去を飲み込み、希望を口にする彼女から目を逸らせなくなり、深く知りたい、触れ合いたいと希うようになっていった。
断罪を求めるわけでもなく、許すというわけでもなく、過去を受け入れて今を生きる彼女に恋焦がれる。
愛しているのはダニエルの方だ。
愛してしまったと言っても良い。
己を慈しむ尊さを教えてくれた心根に心酔する。
ダニエルにとって、尊い魂を抱くエリンは神話を彩る女神のようだ。
エリンの自由を尊重しても、崇高な魂の元に許しを請うように、心の内で跪く。
とうの昔に想いは募り、愛を囁かずにはいられなくなっていた。
「お待たせ致しました。ダニエル様」
背後から声を掛けられたダニエルは、濡れる瞳を瞬かせ、目頭を軽くもんでから振り向いた。
大きな荷物を抱えて、被服店の店主が近づいてくる。
ダニエルは顎をしゃくると歩き出し、屋敷の扉を開いた。




