二章:十二話:2
ダニエルが戻り十日ほど経ったある日。
昼食を作り始める直前に手紙が届いた。
今まで届くことなどなかった手紙をエリンは興味深げに眺める。
封蝋が施された封筒にはダニエルの名前のみが記され、表を見ても、裏を見ても差出人がない。
一見すると怪しげだが、インクが滲まない手触りの滑らかな封筒は明らかに質の良い紙で作られている。
(これはきっと大事な手紙ね)
伯爵家で郵便物や贈り物の仕分けも手伝ったことがあるエリンは、特徴がない上質な封筒で送られる手紙は、すぐに宛て主へ届けるようにと教えられていた。重要な内容が認められている可能性が高く、送り主も封蝋で判別がつくらしい。
昼食を作るより先に手渡そうと思いたったエリンは階段を上り、ダニエルの部屋へ向かった。
「ダニエル様、いらっしゃいますか。お手紙が届いております」
扉の前で声をかけ、ノックする。
返答がなく、もう一度ノックしようとしたところで、いきなり扉が開き、ダニエルが顔を出した。
「どうした」
落ち着いた声音が降ってくる。
見下ろしてくるダニエルをエリンは見つめ返した。
濃緑色の澄んだ瞳がエリンを映す。
今まで見たこともない穏やかな眼差しにエリンは目を見張った。
胸がざわめく。
かつてエリンを見下した濁った緑瞳はどこにいったのか。酒気漂わせる夜盗のような面影などすっかり消え、まるで見知らぬ男性が立っているかのようであった。
(ダニエル様って、こんな人だったっけ……)
新品の日常着を身に着けるようになったことで鍛え抜いてきた体躯が際立つようになり、今では休日をくつろぐ騎士といった見栄えがする。
髪や髭は出会った頃と変わらないというのに、着崩しているからか、名状しがたい色気をも漂わせるようになった。
(違うよね。もっとこう、前は……。これで聖騎士なんてやっていけるのかしらと心配になる風体じゃなかった)
被服店が用意した衣服のせいか。
毎日湯船に浸かっているせいか。
どんなにだらしなくしていても、もはや夜盗や盗賊には見えなかった。
エリンはダニエルの瞳を覗き込む。
(身綺麗な恰好に変わっただけのはずなのに、なんだろう、この感じ……)
ダニエルが向けてくる眼差しが重たい。
長旅から戻った際、真っ向から受け止めた威圧感とも違う、痺れるような感覚が表皮を伝う。
奇妙な居心地の悪さに息が詰まる。
ざわざわする肌感覚にエリンは戸惑いを覚えた。
「それで、なんの用だ」
ダニエルが覆いかぶさるように身を屈める。
玄関先で出迎えた時を彷彿とさせる立ち位置で向き合った。
あの時は恫喝にも臆せず、強気で睨み返せたというのに、ここに来て、なぜかエリンは臆病風に吹かれた。
どきまぎし、胸苦しくなり、訳も分からず、逃げ出したくなった。
(私は手紙を渡しに来たの。手紙を手渡しに来ただけなんだから!)
すべきことを疎かにはできないと踏みとどまったエリンは一呼吸置き、おずおずと手紙を差し出す。
「……手紙が、届いています」
その手紙をダニエルはひょいと取り上げる。
表を見て、裏を見る。
すると、その場で封をびりびりと乱暴に破り始めた。
ペーパーナイフを使わず、しかも廊下で手紙を開封することにエリンは目を剥く。
伯爵家では執事からして手紙はナイフで封を切っており、手で破る人などいなかった。
お構いなしにダニエルは広げた手紙をその場で読み始める。
(ダニエル様、字も読めるの!)
仰天したエリンは息を飲む。
奴隷出の平民が文字を覚える機会はまだまだ少ない。
日常生活に支障ない程度に読めて、かつ名前が書ける以上になるのは、本人の希望と仕事上のチャンスが重なってこそだ。
エリン自身も平民になってから読み書き計算を補強し覚えてきたものである。
(ダニエル様も平民になってから学んだのかしら)
黙読を終えたダニエルが顔をあげる。
視線が交わり、エリンの心臓がどきりとはねた。
「夜会の折に行われる祝賀会の知らせだ」
「祝賀会……、あっ」
被服店の店主が来て、夜会用の衣装をクローゼットに置いていったことをエリンは思い出した。
ダニエルに伝え忘れていたと気づき、青ざめる。
すかさず身体を折り曲げ、頭をさげた。
「申し訳ございません、ダニエル様。ご不在の折、被服店の店主が来て、祝賀会用の衣装を届けておりました」
「報告をし忘れたと……」
「申し訳ございません」
エリンは頭を下げ続ける。失敗をした際、おおげさに謝るのは癖だった。
ダニエルは首に手を置き、斜め上を見上げた。
「そういうことではないんだがな」
小声で呟く。
その呟きを聞き取れなかったエリンは、身体を屈曲させたまま、微動だにしない。
エリンの頭部に憐情の目を向けたダニエルだったが、表情をすぐに真顔に戻した。
「それは知っている。クローゼットのなかで見た。顔をあげろ」
エリンが恐る恐る上目を向ける。
微かに怯えの色を滲ませるエリンを目にしたダニエルは片手をあげて、軽く払った。
「そうじゃない、そうじゃない。その店主はなにか言わなかったのか? 伝言の一つもなかったのか」
伝言と言われ、エリンは喉を詰まらせる。
祝賀会に向けて『婚約者様のお衣装も準備するように言われています』と告げた店主は、連絡がほしいとエリンに頼んでいた。
名刺まで受け取っているにも関わらず、ダニエルに報告しなかったのは、使用人としてみれば、ありえない失態だ。
しかしながら、エリンは婚約者として初っ端から歓迎されていない。
婚約者用のドレスを被服店が準備している旨を告げることは、自分のドレスを作ってほしいと頼む体になってしまう。
報告義務を怠ったと言われたら、返す言葉もないとはいえ、婚約者であると主張する気などさらさらないエリンにとって、被服店の店主の要件を伝えるのは心底荷が重かった。
やっと得られた居場所なのだ。
自らふいにしたくない。
そんな保身が働いていたと言えば、その通りだった。
(私は働きたいだけ。婚約者になりたいわけじゃない。大それたことを望んでいるわけではないわ)
しかし、ダニエルに問われて、嘘をつくような度胸もない。
「……被服店の方が、ご一報くださいとのことでした」
ダニエル対し正直になれる、ぎりぎりの一言を、エリンは苦し気に告げる。
「名刺も置いていかれており、自室にて保管しております」
エリンは床に視線を落とした。頭部に刺さるダニエルの視線が痛い。
「その店主を呼ぶように」
「……はい」
「祝賀会に参加するための衣装が必要だ」
「それはクローゼットに……」
顔をあげたエリンが、ご用意していますと言う前に、ダニエルが「違う」と制した。
ダニエルがエリンの顔を覗き込む。
酒の臭いはもうしなかった。
きれいに洗われた髪からは、石鹸の爽やかな香りが流れてくる。
「あれは俺のだ。必要なのは女物。意味は分かるな、エリン」
わからないと言いたいエリンは小刻みに顔を横に振る。
ダニエルの次の言葉が怖くて、聞きたくなくて、逃げ出したくて、足元が浮わつき、おぼつかなくなる。
ダニエルは堂々とエリンに告げる。
「俺は一人では来るなとくぎを刺されている。婚約者同席を命じられている。何が必要か、察しはつくな。大至急必要なのは、エリンの衣装だ。すぐに手配しろ。俺の婚約者は、エリン、お前だろう」
慄くエリンは泣きそうな顔になる。
頭のなかも真っ白になり、寒くもないのに体が震えた。




