二章:十一話:1
一心に剣を振るダニエルを廊下から眺めつつ、エリンは朝食を作るため厨房に入る。
そんな朝のルーティンに慣れてきた頃、ふらりとダニエルが厨房へ顔を出した。
昨日までは訓練後に汗を流し、食堂で待っていたというのに、どういう風の吹き回しかとエリンは仰天する。
「ダニエル様、いかがされましたか」
調理中の手が止まった。訊ねる声が上ずる。
ダニエルが現れる理由がエリンにはさっぱり分からなかった。
首に手を添えたダニエルがゆったりと厨房を見回し、
「食堂に運ぶものはないか」
と、告げた。
エリンの目が点になる。
(運ぶものって、なに?)
発言の意図を理解しきれないエリンをよそに、ダニエルはコンロへと目を向けた。
そこにはひと煮立ちさせたスープ鍋が置いてある。
「その鍋は運んでいいのか」
「へっ?」
「スープは出来上がっているのか」
「あっ、はい。できています」
「では、鍋を先に運ぼう」
コンロに近づいたダニエルが鍋の取っ手を握った。
とめる間もない素早い動きに、エリンは呆気にとられる。
「保温用の布に包めて食堂に置いておく」
踵を返したダニエルが調理台の横を素通りする。
エリンはあっと声を漏らした。
ダニエルがエリンに目を向ける。
「なにか」
問われたエリンはまごつく。
現れただけでも驚きだというのにダニエルが手伝いを始めるとは!
想定外もいいところだ。
不意を突かれるあまりに、半ば放心するエリンは勢いで口走ってしまう。
「よろしくお願いします」
「なんてこともない」
ダニエルが軽やかに厨房を去ってゆく。
扉が閉まり、エリンはもう一度あっと声を漏らした。
「私……。よろしくお願いします、なんて。なんてことを!」
失言に青くなり、コンロに目を向けた。
あるはずの鍋がない。目を凝らそうと、ないものはない。
現実においてダニエルが鍋を持ち去った事実を直視し、今更ながら慌てふためく。
エリンの辞書に屋敷の主が使用人を手伝うなんて項目は元よりない!
調理中の手を止めたままエリンは叫んだ。
「ええぇ! まさか、なんで。どういうこと!」
思いもよらないことはさらに続く。
翌朝から毎日、ダニエルが厨房に顔を出すようになったのだ。
鍋を運ぶ。カトラリーや皿を運ぶといった手伝いが、あれよあれよとなし崩しで始まった。
このままではダニエルの手出しが常態化してしまうと気づいたエリンは、どこかできっぱり断らねばと腹をくくる。
意を決したエリンは、厨房に現れたダニエルに苦言を呈した。
「ダニエル様、手を貸していただくのはありがたいのですが、これらは私の仕事になります。ダニエル様にとって暮らしやすいように整えるのが私の務め。ご不満がありましたら、真摯に改善いたします。ですので、ご要望があるのでしたら、そのご意見をお聞かせくださいませ」
鍋の取っ手を掴むダニエルが、円らな瞳を瞬いた。
「たいしたことではない、気にするな」
「いえいえ、ダニエル様。ダニエル様にはダニエル様のお立場があります。お部屋でお寛ぎいただくか、食堂でお待ちいただければ、私の方で万全に準備致しますので……」
「もののついでだ。鍛錬後で腹も空いている。早く食べたいだけだと思っていればいい」
「それならば、私がもう少し早めに起きて準備致します」
「無理をする必要はない。俺が手伝えば済むだけだ。そもそも暮らすとは、そういうものだろう」
悪びれる様子もなく、ダニエルは厨房から鍋を運び出してゆく。
厨房の扉がぱたんと閉まった。
残されたエリンは唖然とし、がっくりと肩を落とす。
「話……、通じてないわ」
渋い顔をし、人差し指でこめかみを抑えた。
「そもそも暮らすって、なに……」
聖騎士のダニエルは貴族相当の存在だ。
貴族ならば貴族らしくしてほしい、そんな諫言が浮かび、ぴたりとエリンの思考が止る。
今でこそ聖騎士をいう称号を得たダニエルであるが、そもそも彼は元奴隷。
奴隷出の平民だ。
北では当然、家族と暮らしていたことだろう。
立身出世する以前は、掃除や洗濯、料理に至るまで自分で行うか、家族とともにこなしていたに違いない。
一家総出で、仕事をし、家事もする。そんな育ちを考慮すれば、暮らすという意味合いが、貴族の暮らしとは程遠いものであることは容易に想像がつく。
「まあ、私だって、奴隷出の平民ですからね。母と過ごした日々を思えば、ダニエル様が想定している、暮らすということがなにか、わからないでもないですけどね。私だって、暮らすと考えれば、母と過ごした日々を思い出しますけど……」
母の手料理を食べる際、エリンが椀や匙を用意して手伝っていたことを思い出す。
伯爵家の人々が残した食べ物をいただく時だって、母はエリンの分を先に取り分けてくれていた。
ダニエルにも、そうやって家族と助け合って暮らしていた記憶があるのだろう。
「そっか。そうよね。ダニエル様は貴族の暮らしがなんたるか。ご存じないのね。まずはそこから説明し始めないといけないのね」
両手の人差し指でこめかみを抑えつつ、渋面を作ったエリンが、んーっと唸る。
過去の暮らしになぞらえて手伝ってくれているのならば、無下にするのも忍びない。この様子では、伯爵家で見てきた貴族らしい暮らしをダニエルに今すぐ求めるのも酷だろう。
なにより、この屋敷を維持するために必要な人員は、まだまだ足りない状況だ。
ダニエルに手伝わなくていいと突っぱねられるほど屋敷の管理は芳しくない。
どこまでも伸びる庭草だけでなく、使っていない部屋の掃除だって、ダニエルが戻って以降、止む無く放棄している。
「ダニエル様には、もっと、こう、聖騎士様らしい暮らしをしていただきたいのに……」
広い屋敷を切り盛りするにも一人では限界がある。
力及ばない現実をありありと突きつけられ、エリンは苦々しい思いを噛みしめた。




