二章:十話:2
ダニエルは両手を後ろに回して、身体をのばした。
上半身をひねり、まだ寝ぼけている身体を起こす。
「なあ、エリン。働くのは楽しいか」
クローゼットに向かおうとするエリンを呼び止める。
足を止めたエリンがダニエルを見た。
「暮らせもしない朽ちた屋敷に置いていったのは俺だぞ」
「お忙しかったのだと思っています」
「それで済むのか?」
エリンが小首をかしぐ。
「恨まないのか?」
エリンは瞬きする。
なにを言っているのか、分からないと言いたげに。
「俺はエリンを朽ちた屋敷に置いていった。ここで暮らしていけないことをわかっていて、置いていったんだぞ。伯爵だってそうだ。一切手を差し伸べずに母親を助けなかったんだろう。さらには、本妻の娘を惜しんでエリンをここに寄越した。明らかに厄介払いもいいところじゃないか」
使用人には答えにくい問いだと分かっていてダニエルは訊いている。
案の定、エリンは曖昧に笑むばかりだ。
「どっちを向いたって恨み言を言う理由があるだろう。相手を罵るだけの大義名分があるだろう。伯爵にしろ、俺にしろ。エリンには恨む理由がある、そうだろう」
ダニエルの語気は段々と荒らぶってゆく。
エリンは「そうですね」と言いよどむ。考える間を少し置き、語り出しだ。
「恨み、と言ってもいいのでしょうか。そんな気持ちを抱いたこともあった気がします。うん、多分、あった……」
「あるはずだろう。恨んでも当然なんだからな」
縋るダニエルをよそに、エリンはうーんと唸る。
どう答えようか、迷っているかのようだ。
その様子を見るダニエルは、何を迷うことがあると軽く苛立つ。
「でも、私の場合は、恨んでいたというより、期待していた方が強かったと思うんですよ」
「期待だって」
「ええ。恥ずかしながら……。
父たる伯爵が救い上げてくれるんじゃないかって。
特にアメリアと私は年も同じで、顔も似ていましたから」
ダニエルは沈黙し、エリンを凝視する。
「期待を抱いた分だけ、その期待に応えてくれないという気持ちが転じて、恨みになっていた気がします」
「期待が、恨みに……」
「だから、半分は自業自得です」
「期待する方が自然じゃないのか。エリンの立場なら期待したっていいだろう」
「そうですね。でも、私、恨んでいる時って、まったく前に進まなかったんですよ。恨みに囚われていたら、きっと前に進めないんです」
ダニエルは凍り付く。
「現実を理解して、やっと吹っ切ったんです、私。正直、もっと早く吹っ切れば良かったなって思ったぐらいですよ。
ああっ、でも、そうしたら……。ダニエル様とのご縁もなかったかもしれないですね。それは残念だから、このタイミングが一番良かったのでしょう。
もう少し早く気づけば良かった。
そう思える今がきっと一番良いんです」
エリンがはにかむ。
ダニエルはそんなエリンから目を離せなくなくなる。
「今、私、すごく楽しいです。
伯爵家で働いてきた経験もぜんぶ生かして、ここにいるんですから。
期待ばかりして恨んでいたら、こんな境地には至りませんでした。
ここにきて、私、やっと自分らしくいられる場所を得た気がするんです。
だから、ダニエル様には感謝しています。
これが本来の私なんだって思える場所を与えてくれた方なんですもの」
晴れやかに語るエリンの眩しさに当てられ、ダニエルは顔を背けた。股座で両手を組み、握りしめる。
「厨房に戻ります。昨日と同じように入浴後の夕食でよろしいですか」
「ああ」
「かしこまりました。お風呂からあがったら食堂にいらしてください」
旅装を仕舞ったエリンが、失礼しますと頭を下げて扉へ向かう。
開ける手前で静止し、振り向いた。
「ダニエル様には感謝しています。恨むなんてとんでもない。
亡くなった母だって、うじうじと伯爵家で働き続ける私より、未来に希望をもって生きている今の私の方が、ずっと良いといってくれると思うんですよ。
あの優しい母なら、不幸ぶっている私を天国から見ていたくないはずですから」
言うだけ言ったエリンはするりと扉を潜り抜けた。
残されたダニエルは呆然と閉じられた扉を見つめる。
しばし、じっとし、急に肩を落とす。
おもむろに顔を両手で覆うと、ダニエルは重苦しい息を吐いた。
廊下を歩くエリンが足を止めた。
床に視線を落とし、ぽつりと零す。
「まさか、あんな風に過去を語れる日がくるなんて……」
恨まないのかとダニエルに問われた際、どう答えていいか分からなかった。
厄介払いと告げられては今更というあきれ気味の感情が湧き、恨む理由があると詰められては困惑が勝った。恨んでいただろうと訊かれれば、その通りだというのに、恨み言が再燃するどころか、過ぎたことだと忘れつつあることに気づかされた。
気持ちを吟味し語り始めれば、過去を吹っ切る言葉が簡単に口から滑り落ちていくではないか。
発言を耳から飲み込み、著しい変化を実感した。
今までにないほど過去を平静に受け止めていることに心の底から驚いた。
過去の出来事が変わらないまま、伴う感情が総入れ替えされていたかのようであった。
かつての憤りはどこへいったのだろう。
(環境以外に、変わったところなんて何もないのに……)
母が亡くなった経緯も、伯爵邸での体験もきちんと思い出せる。
心の奥底を隅々まで洗えば、恨み言の一つや二つはきっと出てくるだろうし、恨もうと思えば今でも恨める気は……、しないでもない。
しかし、無理やり心底から恨みつらみを引き出す必要があるかと自問すれば、否だ。
そこに意味なんて、ない。
ダニエルに向けて言った通りだ。
「未来に向けて希望をもって生きている方がずっと良い。亡くなった母ならそう言ってくれる。優しい母だからこそ、不幸な私を天国から見ていたくないはず……」
記憶する範囲で文言を繰り返し、エリンは失笑する。
「どの口が言うのかしら……」
伯爵邸で働いていた頃を比較しては、笑うしかない。
アメリアの代わりに嫁ぐと腹をくくり、突きつけられる現実を前にして、やっと理解したのだ。
真っ新な目で、血の繋がっている人々を見ることができるようになり、ここにいては駄目だと、やっと腑に落ちたのだ。
そんな心境に至るまで、どれほど時間がかかったことか。
「なにもかもダニエル様のおかげよね。本当に、なにもかも……」
一歩踏み出し、過去を吹っ切る。
今こうして心晴れやかにいられるのも、すべてダニエルのおかげである。
アメリアの申し出に便乗して得ためぐり合わせ。
その奇縁に感謝しかない。
朽ちた屋敷に置いていかれたことさえも、今となっては懐かしいばかりだ。
「一生懸命働こう。働くことを許してくれたダニエルに報いるためにも」
前を向いたエリンは晴れ晴れとした表情で歩き始める。




