二章:十話:1
食堂を後にしたダニエルは自室に戻った。
執務用の書斎が別にあるため、寛ぐ目的の内装は落ち着いた雰囲気でまとめられている。
選び抜かれた材で作れた家具類は、どれも熟達した職人が手掛けた逸品ばかり。
統一感はあっても強い個性はなく、今後どんな絵画や調度品を置いても馴染むことが予想できた。
目に見えないところまでよく気が付くと感心したのは、酒類の選定だ。
暖炉近くの壁際に置かれた飾り棚。そこにひっそりとグラスとともに酒瓶が数本用意されていた。貴族然とした高級酒だけでなく、庶民が好む安酒のボトルがあり、明らかにダニエルの経歴を考慮して用意されていた。
(奴隷出という俺が、飲みなれない高級酒を倦厭する可能性を考えたんだろう)
屋敷の管理のみならず、主の好みをも配慮するとは。
さり気無い気遣いに感服する。
「さすがだな」
伯爵家で働き培われたエリンの能力にダニエルは脱帽するしかなかった。
と同時に、切にここで働きたいと願っている気持ちもまた、ひしひしと伝わってくる。
居室の隣にある寝室に入った。
寝ることを目的とした部屋には、ダニエルが手足をのばしてもまだまだ余裕があるベッドが一つ。
窓にかけられたカーテンとサイドテーブルの他はなにもなく殺風景と言えばそれまでだが、落ち着いて寝るにはこれぐらいが丁度いい。
厚手のカーテンを閉めれば日光もほぼさえぎられた。
ダニエルはベッドに横たわる。
日課の昼寝には、もう一度身体を動かしたいところだが、昨日の今日で疲れていた。
目を閉じる。
瞼の裏に人影が揺らいだ。
徐々に濃くなる人影が影絵のように動きだす。
(いつもの悪夢か……)
慣れきった寸劇が始まる。
襲い掛かる者。
追われる者。
地べたに座り命乞いをする者。
瞼の裏で人が襲われ、倒れていく。
耳奥にこだまするのは悲鳴と怒声。
ずっと内耳にこびりつき、いつまでも拭えない重なり合う声、声、声。
耳鳴りのようにこびりつく泣き声は己のものだと知っている。
幾度再現されても、泣き声に現実感がない。
忘却を許さぬように繰り返される影絵は鏡の向こうの景色のようだ。
事実、あまりのショックに健忘していた頃もあった。
おおよそ思い出せるようになったのは、鍛えて、強くなってからだった。
魔獣を倒していくなかで、特に憤りが噴出した。健忘していた過去の感情が混ざりこんで、抑制がきかなくなったからだろう。頭から血を浴びるように戦い、時に残虐に殺しすぎると諫められた。回顧しきると過去は再び深く沈殿した。
日々に救われ、人生を仕切りなおした矢先、東に駆り出された。功名を得て、肚を括る。これも縁と廻り戻れば、遠い記憶が息を吹き返した。
怒涛のように悪夢が心身を突き抜けて、記憶の海にのまれてゆく。人格が引く。記憶の傍観者となる。どうしていいのか、どうしたらいいのか。分からなくなった。あふれ出る過去に呑まれ、途方に暮れた。
瞼に映す悪夢は常に同じ寸劇を繰り返す。
血に濡れた人々が、忘れるなと足にしがみいてくるかのように。
寸劇の最後は決まっていた。
殺されていく人々を残し、去る。
攫われるように連れ出され、記憶の火は消えていく。
泣き声だけをいつまでもこだまさせて。
「……様、ダニエル様」
ベッドに横になっていたダニエルがかっと目を開いた。
衣類を抱いているメイドが驚いた顔で、こちらを見ている。
見知らぬ顔だと思った。瞬く間、誰だと考える。
飾り気のない小奇麗な寝室が視界に映った。
(夢か……。夢だ。そうだ、夢だ。あんなことはすべて夢だ)
転寝をしている暇はない。
鍛錬に、勉強に、やることは目白押しだ。家庭教師は行列を成して待っている。学ぶことはたくさんある。
今日も明日も……。
「ダニエル様。寝汗がひどいですよ。大丈夫ですか」
「……」
息を飲み、愕然とする。
心配そうに覗き込んでくるエリンを見て、ダニエルは正気に返った。
額に手をあてがうと、冷たい汗の粒がびっしりと張り付いていた。襟足から背中まで寝汗がひどく、気持ちが悪い。
「昨日、帰宅されてまだお疲れのようですね」
寝ぼけるあまり、エリンをメイドと見間違ったとダニエルは自覚する。身体がまだ小刻みに震えており、腕をさすった。
(一瞬、こっちが夢のような気がした)
現実はこっちだ。
無精髭を生やし、手入れ一つしないざんばら髪の飲んだくれ。
それが今のダニエルだ。
のそりと起き上がったダニエルはベッドの上で胡坐をかく。上目でエリンを見やれば、変わらず心配そうに見つめている。
「大丈夫だ。気にしなくていい」
エリンは畳まれた衣類を抱いていた。
「その服はなんだ」
「昨日、着て帰られた旅装です」
「ああ、そうか。それはクローゼットの隅にでも置いておいてくれ」
「かしこまりました」
優秀なエリンはけっして問わない。きれいな服がたくさんあるのに、なぜこんなぼろを取っておくのかと。それが少し、ダニエルにはありがたかった。




