二章:九話:2
「母が亡くなったのは、私が十歳になる前です。日に日に弱っていく母の看病と、働けない母の分まで頑張ろうとしていたのを、よく覚えています」
ダニエルは黙って耳を傾ける。訊ねた手前、聞くしかなかった。
「暮らしていたのは、屋敷の端っこにある一部屋でした。母だけでなく数人居まして、それぞれ一部屋あてがわれていましたね。大部屋ではなかった分だけ待遇はよかったですよ。それでも、冬は隙間風が入りますし寒かったですね。いつも抱き合って寝ていたことをよく覚えています。その方が温かかったですから」
エリンは止まっていた手を再び動かし、洗濯物を干し始めた。
「寒ければ手を包んでさすってくれて、息を吹きかけて温めてくれました。制度が変わる前に亡くなったので、お医者様に診てもらうことはできませんでしたけど……」
ぱんぱんと洗濯物をはらい、一呼吸置く。
「大昔はどうだったか知りませんが、私が子どもの頃はすでに平民も奴隷も働く状況はほぼ同じでしたからね。なのに、私たちは立場上所有物で……。衣食住を保証されることと引き換えに無償で働いていました。平民は給与を得ているのに、私たちは食べ物含め支給品を配られるだけ。お金を貯めることができないから何もできなかった。給金が出るようになったのは、ダニエル様の働きによって制度が変わってからです。衣食住にかかる諸経費を天引きされても、手元にお金が残るのはとてもうれしかったですよ」
言葉を選びながら、エリンは過去を噛みしめる。怒りも不満も、やるせなさも。かつて感じたたくさんの感情をひどく遠く感じた。澄み渡るような気持ちの変化を、驚きとともに受け止める。
(変わったなあ、私……)
伯爵家に居た頃は気にしないようにしていても、不満や恨みが不意に沸いてくる瞬間が何度もあった。やり場のない憤りや恵まれない境遇を呪うかのような感情の坩堝を飲みくだして、働いていたのだ。
怒りが湧くのは、どこかで期待していたからだ。
伯爵が助けてくれるかもしれないと……。
病で逝く母も、娘一人なら助けてくれるかもと期待していたのかもしれない。
死に際に縋った母の期待がこびりついて、吹っ切れずに高望みしていただけなのかもしれない。
(ううん。……違う。きっと違う。やっぱり、期待していたのは私なのよ)
アメリアを見て、あんなふうになりたい、なれたらいいのにと憧れて。どこかで手を差し伸べてくれるのではないかと期待していた。
助けてくれるのではないかと。
救い上げてくれるのではないかと。
アメリアの代わりに嫁ぐと言い切っていなければ、そんな期待の鎖に今もがんじがらめになって、過ごしていたのかもしれない。いや、過ごしていたことだろう。
付け焼刃でマナーなどを教えられるなかで、どこまでいっても奴隷は奴隷、嫌悪される立場だと肌でひしひしと感じることとなり、目が覚めた。
(時間がかかったなあ。あの屋敷にいても、隅で働かされるだけで、誰も認めてくれないって、もっと早く気づけば良かったなあ)
結局、現実と向き合うことができたのはダニエルの屋敷に向かう馬車のなかだった。
エリンは澄んだ空を見つめ、止まりそうになる手を意識的に動かす。
身体を動かせば、気がまぎれることは働くなかで学んでいた。
青空を背景に洗濯物が翻る。眩しさに目を細めたエリンは、こんな透き通るような青い空を、久しぶりに見る気がした。
(まるでお母さんが生きていた頃に戻ったみたい)
軽やかであり穏やかであり華やいでいた子ども心が返り咲く。
(出自の秘密を知らなければ、恨みもなにも知らない朗らかな心を抱いたまま大人になることができたのかな。……、ううん。そんなことないわ。ないわね、きっと)
伯爵家で働いていれば、否応なく気づくだろう。
アメリアさえ勘付いたことを、知らぬまま過ごせるわけがないのだ。
今、空がこんなにも澄んで見えるのは、認めたくない現実を受け入れたからだ。
期待に任せて、勝手に病んでいたことを認めたからだろう。
息を吐く。
毒々しい感情がぬけるような青空に溶けて消えていく様が見える気がした。
「私たちは見捨てられ、母は医者にかかれず亡くなりました。しいて心の残りをあげるとすれば、お医者様に診てもらうことさえできなかったことです。ああ、でも、お金があっても高額で、なにもしてあげられなかったかもしれないですね。それこそ金貨でもあれば違ったかもしれませんが」
穏やかに語るエリンから、ダニエルはバツ悪そうに視線を逸らす。
「……、遅くなって悪かった」
「なにを謝るんですか? ダニエル様に私は心から感謝しているというのに。こんな気持ちになれるきっかけをくれたのはダニエル様なのですから」
奴隷から出世し、国を動かしたダニエルがいなければ、今ここにいるエリンはいなかった。
ダニエルのおかげで伯爵家を飛び出すことができた。
気持ちを切り替えることができた。
その結果、今ここに生きている。
感謝と尊敬。
ダニエルに抱く気持ちは言うなればそれだけだろう。
遠く離れて活躍した人に、それ以上のことを望んでどうするというのか。
「私は、ただただダニエル様を尊敬し、感謝しているだけです」
「感謝?」
「はい。こうやって新しい人生を踏み出そうという勇気をもらった感じですね。ちょっと気障な言い方かもしれないですけど」
エリンは照れ笑いを浮かべる。
「そんなことはない……、と、思うぞ」
「そういってもらえると嬉しいです。ダニエル様のおかげで、苦かった過去も過去だと言えるようになりました。ありがとうございますと何度言っても足りないぐらいです。だからこそ、ここで働けることが、私にとって、なにより嬉しいことなんです」
手元にあった洗濯物が干し終わった。
「つまらない話でも、最後まで聞いてくれてありがとうございます。伯爵家にいたら、誰にも言えない話だったので、言葉にすることができてすっきりしました」
エリンは空っぽになった籠を抱きかかえた。
「では、ダニエル様。昼食の準備をしますので、これにて失礼致します」
歩き出したエリンが、ダニエルの横を会釈して素通りしようとした時、
「……、エリン」
ダニエルに呼びかけられて、エリンは足を止めた。
「なにかございますか」
「あっ……、ああ……、働くにしても、だな。あれだ、あれ……、命日ぐらいは、休めよ」
ダニエルの発言にエリンは目を丸くする。
首に手をかけ、相変わらず目を合わせようともしないが、悪感情を抱いていないのは声音から伝わってきた。
「ありがとうございます。その時は、遠慮なくお休みを頂戴します」
晴れやかな笑顔でエリンは裏口から屋敷へと戻っていった。
エリンが去った裏庭で、ダニエルはがっくりと肩を落とした。
(知らなきゃよかった)
母を亡くし、父からも捨てられた娘が来るなど、想定もしていなかった。
もっとこう、貴族然とした娘がくると高をくくっていたのが裏目に出た。
思い込みが強すぎて、エリンの話を聞こうともしなかったのも悪かった。
悔悟の念にかられて胸がつまる。
顔をあげたダニエルが、
「知っていたら、もっと別のやり方を考えただろうに……」
エリンがくぐった裏口をじっと見つめて呟いた。




