二章:九話:1
食堂を片づけてから厨房へ戻る途中、エリンは廊下の窓へ目を向けた。
雲一つない真っ青な空を見てにんまり笑う。
こんな日にすることと言えば、言わずもがなこれしかない。
「まさに絶好の洗濯日和ね! 特にダニエル様の旅装はしっかり洗って、お天道様のもとで乾かさなくちゃ」
昨日、脱衣所から回収したダニエルの衣類はもみ洗いし、石鹸水につけている。
午前中に洗って干ししておけば、昼時の強い日射しを浴びて、夕方には乾いていることだろう。
片づけた厨房で昼食の下ごしらえを済ませるとエリンは洗濯場へ向かった。
食堂を去ったダニエルは自室にへ戻った。
整えられた居室から寝室に入る。
ベッドにごろりと横になり、天井を見つめた。
(母は奴隷で、父は貴族か。本妻に疎まれて当然の立ち位置だな)
恨み言を零すことなく、エリンは働きたいと未来を語った。過去の不遇を感じさせない眼差しがありありと思い起こされ、ダニエルの頭から離れない。
なぜあんなにも前を向いていられるのか。
母の出自によって扱いが違うことを、恨まずにいられるのか。
理解しがたく、もやもやしながら寝返りを打つ。
(母一人子一人で育ったとしたらなら、母の存在が大きかったことだろうな)
横を向いたダニエルが動きを止める。
(エリンが伯爵家を去ったとしたら、彼女の母親はどうしているんだ。伯爵家に残って働いているのか……)
ダニエルの顔が険しくなる。
伯爵家に残るエリンの母親は、未だ肩身の狭い思いをしながら、嫁がせた娘を想い、寂しく日々を過ごしているのかもしれない。
想像すれば胸がずきりと痛んだ。
未来への希望を真摯に語る娘を育てた母親である。
きっと心の暖かな芯の強い女性に違いない。
エリンへの仕打ちを思い出すダニエルはやるせなくなる。頭を抱え、かき乱した。
(聖騎士に嫁いで幸せになっているなんて思われていたら、最悪じゃないか)
エリンだけでなく彼女の母親まで裏切っているかのようで、ダニエルは心疚しくなる。
(伯爵家にまだいればいいが……。エリンがいなくなったことで、嫌悪する夫人に追い出されていたら、それこそ後味が悪すぎる。俺が母と娘を引き裂いたうえに、二人とも不幸にした、なんて。そんなことになったら寝覚めが悪いったら、ありゃしない)
ダニエルがかっと両目を見開く。
(まてよ! この屋敷を切り盛りするにしても、エリン一人じゃ大変だろう。もう一人ぐらい人手があっても足りないぐらいだ。そうだ。伯爵家に残っているのなら、こっちに呼べばいいだけじゃないか)
がばっとダニエルはベッドから飛び起きた。
「母親をこっちに呼び寄せて一緒に働けるようにすればいい。エリンだってその方が安心できるはずだ。平民の一人ぐらい、伯爵相手ならどうとだってなる!」
そう思いつくや否や、エリンを探そうとダニエルは転びそうになりながら、大慌てで寝室を飛び出した。
一方、厨房の片づけを終えたエリンは洗濯場にいた。
高窓から太陽光が降り注ぐ室内は、洗濯専門の作業場らしく床はタイルが敷き詰められ、水をたっぷりと張れる大きな洗い場の他に最新の脱水機が備えられている。
物干し竿も吊り下げられ、雨が降っても冬が来ても仕事に支障がでない。
どれだけダニエルが汗を流し鍛錬しても、薄汚れた格好で長旅から帰ってきても、対応できる!
袖をまくったエリンは、昨日集めておいた洗濯物の量を確認し、ダニエルの旅装を浸け置きした桶を覗く。予想通り、水は茶色く染まっていた。
「どこをどうすれば、ここまで汚せるの? まるで子どもの砂遊び後みたいだわ。山道や獣道でも通ってきたのかしらね」
呆れつつ、エリンは洗濯に取り掛かる。脱水まで済ませると、取っ手付きの籠に洗った衣類を詰めて外へ運び出す。裏口から戸外に出た。
さんさんと輝く日光に射され、目を薄くするエリンがゆっくり瞼をあげる。
雲一つない真っ青な空が広がっていた。
そよぐ風が清々しい若草の香りを運んでくる。
籠を芝生に置いたエリンは裏口近くに用意しておいた物干し台を日当たりのいい場所へ運んだ。竿を引っ掛けてから、その真下に洗濯物を入れた籠を移動させる。準備を整え、エリンは額の汗をぬぐった。
殺風景な芝生の向こうには、大人の背丈ほどもある厳めしい塀があった。塀の向こうに自然林が広がるため、動物が侵入してくるのを防ぐために設けられているのかもしれない。
が、それにしても高い塀だ。
花も木も植わっていない庭には少々大げさな印象が否めない。
時間のないエリンは頭を切り替え、籠からダニエルの衣類を取り上げた。
ぱっと広げて、大きく上下に振る。汚れは落ちているものの、くたびれた布地はどうしようもない。クローゼットにずらっと並ぶ新服を思い出すと、こんな着古された衣類は捨ててもいい気がした。
とはいえ、ダニエルの所有物だ。
勝手に捨てて、旅立つ際にどこにあると言われても大問題となる。
許可を得ていない以上、エリンに捨てるつもりはない。
ダニエルの服をハンガーにかけ、竿にひっかける。
拍手をするように衣類全体を叩いていけば、手のぬくもりで大きな皺が徐々に目立たなくなっていった。
「なんで服を叩いているんだ」
突然声をかけられ、エリンは喉から心臓が飛び出しそうになるほど仰天した。
声がした方に目をやると、顔を彼方に向けるダニエルが立っていた。
距離があるため、表情は伺い知れない。
「えっと……、皺をのばしています」
エリンは戸惑いながら答えた。
手を止め、しばし出方を見ていたものの、ダニエルはそれきり黙ってしまう。去る素振りなく突っ立っていると、まるで監視されているかのようだ。
エリンはむずがゆくなる。じっとしていられず手を動かし始めた。
ダニエルが軽く咳払いをした。
「……行くところがないと言ったが」
エリンがびくっと肩を震わす。出ていけと言われるかもしれないと怯えるあまり、洗濯物を干す動作が鈍る。
「母親は、どうしている」
突拍子もない話題をふられエリンは肩透かしを食らう。
そんなことかと安堵したところで、ぽっかり空虚な疑問がわく。
(話していなかったっけ……)
はてとダニエルとの会話を振り返る。
母が奴隷であることは伝えても、生死については何も告げていなかった。
ダニエルが母親を呼び寄せるつもりであるなどと考えもしていないエリンはさっぱりと答えた。
「母はすでに亡くなっています」
「亡くなっている、だと……」
予想外の答えにぐわんと揺さぶられたのはダニエルだ。頭のなかが真っ白になる。エリンの年齢からみて、母は存命だろうと安易に決めつけていたため、不意を突かれた。
口元に手をよせ、身じろいだダニエルが掠れた声で告げる。
「……すまない。考えなしに不躾な問いを発してしまった」
「気にしないでください。昔のことです」
「しかし、母だろう。あれだ、唯一の身内のような……」
「そうですね」
「寂しくないのか」
「そりゃあ、寂しいですよ。それでも、母との思い出は私のなかにたくさん残っていますから」
ダニエルが瞠目し、エリンを凝視する。
距離があるため髪と髭に覆われているダニエルの表情はエリンの視界には入らない。
ダニエルの本意を気にかけることなく、問われたことをいいことに、エリンは軽い気持ちで身の上を語り始めた。
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