二章:八話:3
つつましく着席したエリンを見たダニエルは、そこまで距離をとる必要はないんじゃないのかと思いながら、カップに口をつけていた。
温い紅茶が喉を通り、身体が内から温もれば、そわそわする気持ちも慰撫される。
エリンを様子を伺うダニエルの目には彼女が切り分けたキッシュがあまりにも小さく見えた。
(これから働くというのにその量で足りるのか。この広さの屋敷を一人で維持するつもりなんだろう。要領良く働くにしたって体力は必須だろうが)
本当に一人で屋敷を維持管理できるのか。
途中で投げ出しやしないのか。
真意をもう一度確かめなくてはいけないと考えたダニエルは、話のきっかけを作ろうと目の前にあるパンの籠に指をかけた。
(やらかしてくれたんだから、責任取ってもらわなくては、なっ)
ダニエルがエリンに向け、パンが入った籠を寄せた。
籠に気づいたエリンが顔をあげる。
(食べろという意味かしら)
パンの籠ごしに、エリンは静かな眼差しを向けるダニエルに気づく。
「エリン」
「はい」
「エリンは働きたいのか」
急に問われて、エリンは目を丸くした。
働かせてほしい。
喉から手が出るほど切に願っていたはずが、ダニエルに問われた土壇場でまた詰まる。
はい、働きたいです。
そんな簡単な一言が喉につかえて出てこない。
働かせてほしいと願う表の心とは裏腹に、ずうずうしく居座るために屋敷を修繕したのかと責められる恐れも、エリンは相反するように感じていた。
執事のように働く姿を夢想しては、どこかで足をすくわれるのではないかと怯えてもいた。
両極端な気持ちはいつもシーソーのように、ふとした瞬間に入れ替わる。
恐れを払拭し、期待に縋りつくように無心で働き、ダニエルの帰りを待っていたのだ。
初対面から拒否されていると肌で感じている以上、花嫁として望まれないことは十分に理解している。
元は奴隷なのだ。
たとえ伯爵の血を半分引いていても、アメリアのようになれないことは、とっくの昔に自認している。
英雄の妻に収まろうなんて身の程知らずも良いところ。
身分相応を望むなら働く方が合っている。
ダニエルの部屋も毎日掃除し、ベッドも整えていた。
手が回る限り巡回し、数日おきにはすべての部屋の埃を払い奇麗にしていた。
帰宅時に用意する食材も準備し、小物の配置に至るまで、伯爵家で働いてきた経験を活かした。
修繕した屋敷で働くなかで結論は出ていた。
つつがなく尊敬できる人の下で働く。
働きたい。
つまるところ、願うはそれだけだ、と。
望む主を得る。
仕える者にとって、こんな名誉なことはない。
じっと返答を待つダニエルにエリンは心を込めて希う。
「はい。働きたいです。どうか私をここにおいてください。屋敷の管理、食事の用意、洗濯、掃除。奴隷出身の私は、何でもできます。ダニエル様がご不在の折も、屋敷をちゃんと管理してみせます。ですので、どうか私をここで、働かせてください」
宣誓したエリンはじっと佇み、ダニエルの返答を耐えて待つ。
迷いのないエリンの声は澄んでいて、ダニエルの耳に心地よく響いた。
完璧に修繕した屋敷を埃一つなく維持したエリンに負けたと言ってもいい。
揺るがない意思を、言葉ではなく、行動で示したことは称賛に値する。
(屋敷を修繕するかどうするか。決めるのは、まだ先だと思っていたが……)
この状況では、もう認めざるを得ない。
夕に朝に用意された料理は美味しかった。
風呂も気持ちよかった。
ベッドの寝心地も最高で、日の出前までぐっすり眠ることができた。
寝酒を必要としない夜は、この屋敷で寝泊まりして初めてだった。
料理と快適さを味わえば、今まで拒否していた理由がなんだったのかと拍子抜けしてしまう。
屋敷を見た瞬間にガツンと殴られ、なんてことをしてくれるのだと怒りを覚えたものの、ぼろぼろの屋敷に娘一人を置き去りにて出た己の行為を省みれば、このしっぺ返しが手痛いとはいいがたい。
相応の報いというよりも、ある意味、天の啓示。
朝日を浴びて爛々(らんらん)と輝く寝室と居室を見て、そう思った。
決断できずにいる不甲斐なさを、窘められている気さえした。
「好きにすればいい」
そう言いながらダニエルは立ち上がった。
エリンの目が丸くなる。
きりっとした表情がはらりと落ち、年相応のあどけなさが露わとなる。
新たな一面を見出し、ダニエルの目が和らぐ。
昨夜からしてやられっぱなしの身としては、してやったりという気持ちも相成り、顔をほころばせた。
微かな変化を察知したエリンが両目を瞬く。
ダニエルが背を向ける。声をかける間もなく、食堂を去っていった。
エリンは呆けた顔でぱたんと閉じた扉を見つめる。
「……最後に、あれ。笑ったのかしら」
今までにない表情を向けられ、エリンは小首を傾ぐ。
胸苦しさがこみ上げてくると同時にダニエルの一言が耳奥でこだました。
『好きにすればいい』
ダニエルはそう言った。
それは、すなわち、働いて良いということに他あるまい。
じわじわと歓喜が胸に満ちてゆく。
感極まり、両目が潤む。
唇が微かに震えた。
「私、ここにいて、いいんだ」
エリンはぐっと拳を握りしめる。自然と口元が弧を描いた。
ダニエルの屋敷で働ける実感に、いてもたってもいらず足踏みした。
たんたんと小気味よく床を打ち、エリンは背を縮こませる。
一拍置き、仰け反った。
「やった! ここにいていいんだ、私!」
目を輝かせ、打ち震える。
喜びに浸るも束の間。
次の仕事が待っていると現実に立ち返る。
それでも溢れる喜びは隠しきれない。
相好を崩すエリンが、キッシュを一口頬張る。
喜びというスパイスが効いた料理は言葉に出来ないほど奥深い味わいであった。




