二章:七話:2
浴槽からざばっと立ち上がったダニエルが、壁のフックに掛けられていたタオルを手にした。
さっと身体を拭いて、浴場を出る。
洗面台の隅にわかりやすく新しい衣類が用意されていた。
着てきた服は片づけられており荷物もない。
「まったく、仕事が早いことで」
嫌味を込めて愚痴っても所詮負け犬の遠吠え。
用意された服に着替えるしかない。
ダニエルはきめの細かな生地で仕立てあげられたシャツに袖を通した。
きちんと採寸しているため、ぴたりと身体にフィットする。
日常着ではあるが、肌触りはすこぶる良い。
この着心地を知っては、北の砦から持ってきた衣類を着る生活には戻れない気がした。
夜盗の装いを剥けば、北の砦で鍛え抜いてきた筋肉が露わになる。
ダニエルに合わせてあつらえた衣装は、精悍な肉体美を際立たせた。
湯につかり身体がさっぱりした分だけ、何か月も刈っていないぼさぼさの髪に無精髭という顔まわりだけが余計に目立つ。容貌を隠して姿形のみとらえれば、まさに別人といえるほどに。
鏡を前にしたダニエルは、そこに映る雄々しい全姿を、呪わしく見つめるのであった。
その頃、エリンは厨房にいた。
調理台に放置していた品々を所定の場所に素早くしまうと、氷室からとっておきの肉を取り出し、瞳を輝かせる。塩とハーブをもみこんだ一塊の肉は、ダニエルが戻ってくることを見越して用意したものだ。
(ダニエル様に美味しいと言ってもらえたらうれしいな)
嬉々としてエリンはコンロに載せておいたスープ鍋に火にかけた。
中火にして、軽くかき混ぜる。
沸き始めたところで火を止めた。
続いて、新鮮な果物を数種類カットしガラスボウルに盛り付ける。
買ってきたばかりのパンもスライスした。
それらをカトラリーとともに食堂へ運びこむ。
掃除の行き届いた食堂には、均一な木目が美しい一枚板の天板を用いたダイニングテーブルが置かれている。なにを飾っても見栄えがするシンプルな逸品だ。
温まったスープも鍋ごと食堂へ運び入れる。
保温のため厚手の布でしっかり包んで置いておく。
続いて、ダニエルが座る一席をセッティングし、エリンは厨房へと取って返した。
あとは肉を焼くのみだ。
フライパンを火にかけ、オイルをたらす。
熱したフライパンに肉の塊を載せれば、じゅうじゅうと勢いよく表面を焼き上げ、食欲そそる香りが立つ。
鼻歌でも歌いだしそうな表情で、エリンは肉の焼き具合を注視する。
(戻られたばかりなんだから、ダニエル様もお疲れなはず。お風呂に浸かって、よく食べて眠ってもらうのが一番大事よね)
薄汚れた旅装で戻ってきたとしても、奴隷上がりという経歴を考慮すれば、推して知るべし。
むしろ、そんなダニエルを支える役を担えるとしたなら、こんな嬉しいことはない。
国を守るために働き、その功績をもって国中の奴隷を平民の身分へと押し上げた人物だ。
回り巡って、エリンが伯爵家を出るきっかけにもなった。
エリンにとっても、まさにダニエルは恩人に他ならない。
(婚約者として受け入れてもらうなんて、最初からおこがましいことだったのよ。このまま使用人として働かせてもらえたら、それだけで十分よ。この一月、そのために頑張ってきたようなものじゃない)
料理に掃除、かゆいところに手が届く奉仕をもって、この屋敷で働き続ける許可を得たい。
エリンはそれだけを願い、丁寧に肉を焼き続けた。
厨房から漏れ出た香りがゆらゆらと廊下を漂う。
洗面場を出たダニエルが鼻を利かせ、顔をあげた。
肉が焼ける良い匂いに触発されて唾液が溢れる。
後ろ手で扉を閉めつつ、拳を口元に寄せた。
「畜生、あの小娘。料理まで……」
すきっ腹に肉の香りは蠱惑的に効く。
間髪入れず、空腹を主張するお腹がぐうぅっと鳴った。
触発され、コンビーフ入りのオムレツの味が口内に蘇る。
(いつもいつも、なんでこうもタイミングよく……)
顔を顰めたダニエルが舌打ちした。
しかし、食欲に勝てるわけなし。
肉の香りとオムレツの記憶に後押しされ、ダニエルはふらふらと歩き始める。
食堂に近づくごとに香りが増す。
憤然と食堂の扉を開けば、予想通り、内装からダイニングテーブルに至るまで、すっかり新装されていた。寸秒硬直し、肩を落とす。ここまで徹底して改装されたとあれば、抵抗する気も砕かれる。
顔をあげる。
真顔を取り繕ったダニエルは堂々と入室した。
粗探しでもしてやろうと小姑よろしく隅々まで眺めまわすも、掃除が行き届いた室内からは埃一つ見いだせない。
華美により過ぎない内装も趣きがあり申し分ない。
不機嫌なままダニエルはどかりと適当な椅子に腰をかけた。
「なんなんだ、あの娘は……」
椅子の背にもたれかかり、ダニエルは腕を組む。
渋い顔をし、首を捻った。
貴族の邸宅として理想的な変貌を遂げた屋敷は、細部に至るまで配慮が見られ、当然の如く、掃除も行き届いている。邸内を熟知し、日々の管理をきちんとしなければ、ここまでの状態は維持できない。
伯爵家から使用人が定期的に来る程度では実現不可能な所業である。
「やはり、あの娘か……」
帰宅してから洗面場へ案内する所作。
湯船にお湯を張る作業。
荷物と着替えの入れ替え。
なにをとっても仕事ぶりは著しくスムーズであった。
そのうえ、料理まで卒なくこなすとなれば、
(信じがたいことではあるが、娘一人で屋敷の管理をこなしていると考えるのが必然か)
そう結論づけなければ辻褄が合わない。
虚空を凝視するダニエルが呟く。
「これは問いただせねばなるまい」




