二章:七話:1
湯船にもたれかかったダニエルが、首元まで湯に浸かり、漂う湯煙に蕩ける目を細めた。
適度な湯温が身体に沁み入り、旅の疲れが湯に溶け出る。
何とはなしに、唸るような感嘆の声が漏れた。
湯心地を満喫するダニエルは両手で掬い取った湯を頭からかぶる。
温む手で顔を包み、そのまま数秒、静止した。
「……」
両目を瞬く。
「何をしているんだ、俺は」
指の間から眼球を覗かせ、左右に動かす。
真新しい浴場内もまた、玄関や廊下同様、すっかり様変わりしていた。
内装だけでなく小物の配置に至るまで、どこの貴族の邸宅に招かれたかと錯覚するほどの仕上がりぶりに、戸惑えばいいのか、呆れればいいのか、それさえ分からなくなる。
両頬を引き下げながら手をおろす。
下瞼が捲れる。
口角を下げたダニエルが視線を天井に投げた。
「一体どうしてこうなった……」
呟けば、胸を張って出迎える口達者な娘の顔が浮かんだ。
「あの伯爵家から来た娘のせいか……」
それだけは間違いないと確信する。
※
「では、新しくなった浴場へとご案内いたします」
伯爵家からきた娘が踵を返す。
ピンと背筋を伸ばし、歩き始めた。
追いかけるダニエルは、荷物を抱きかかえて落ち着きなく辺りを伺う。新築同様に蘇った内装を目の当たりにし、一層身体を縮こませた。
(ここは俺の屋敷のはずだろ……)
先を行く娘が唐突に足を止めた。
ダニエルは飛びのかんばかりに驚いた。
尻込みしていることがバレないよう顔だけ取り繕っても、へっぴり腰は隠せない。
「こちらになります」
扉を開いた娘が振り向く。
きらきらとした笑顔で、意気揚々と袖をまくった。
「すぐにお湯を張りますので、少々お待ちください」
入室した娘はダニエルを置き去りにし、ずんずん進むと、奥にある扉へと消えた。
しばらくすると開け放たれた扉から水の音がざあざあと聞こえてきた。
おどおどしつつダニエルも扉をくぐる。
息を潜め、怯えた目で浴場に通じる洗面場をざっと眺めた。
大きな鏡がぴかぴか光る洗面台、細緻な装飾が施された天井に加え、真新しい壁紙が目についた。床も水はけの良い素材に張り替えられている。
以前の面影など一切合切消えうせた装いを目の当たりにしたダニエルはげんなりする。
水の音が消えた。
娘が明るい表情で浴場から飛び出してくる。
元気いっぱいの笑顔を向けられ、ダニエルは眩しと目を細めた。
「ダニエル様、お待たせ致しました。浴槽にたっぷりと湯を張りましたので、どうぞ旅の疲れを癒してください。旅のお荷物はお気になさらず、洗面台の片隅に置いておいてくだされば結構です。お着替えをお持ちした際に部屋まで運んでおきます。
その後、私は夕食準備に取り掛かかる予定です。湯から上がった際は食堂へお越しくださいませ。それでは一旦失礼いたします。どうぞゆっくりとおくつろぎください」
一気にまくしたてた娘が一礼し、脱衣所を出て行った。
快活な足音が遠ざかってゆく。
小奇麗な空間にぽつんと取り残されたダニエルはどうしたらよいか分からなくなる。
なす術なく、視線を泳がす。
ふいに洗面台の大鏡が目に入った。
写り込む己の姿を目にし、表情を引き締める。
何日も洗っていない脂ぎった髪。
旅すがらずっと剃らずにきた髭。
繕いが目立つ泥まみれの衣類。
浮浪者扱いされても仕方のない姿を視認し、いたたまれず目を逸らした。
隅々まで修繕された屋敷のなかで、この姿は不快に目立つ。
帰宅して何度目になるかわからない渋面を浮かべ、ダニエルは耳の根を掻いた。
「ここまで徹底的になおすかよ……」
朽ちた屋敷に置いてきた娘に、なにもかもを乗っ取られた気分に駆られた。
※
突如、ダニエルはかっと目を見開いた。
「正気に戻れ」
叱咤し、両手で頬を打つ。パンと甲高い打音が浴場に響いた。
「一体どういうことだ!」
足をのばせる浴槽に身体を沈めたまま、ダニエルが声を荒げる。意識がはっきりすると更なる怒りが込み上げてきた。
「伯爵家からやってきたあの娘は何だ、一体何者なんだ!!」
いら立ち紛れに拳で湯面を叩く。四方に飛沫が散り、頬を濡らした。
旅立ち前、貴族の娘ならすぐにいなくなるとダニエルは思っていた。
初日はこの屋敷で暮らすとプライドだけで言ってのけても、数日すれば音を上げて逃げ帰ると予想していたのだ。放り投げた金貨は手切れ金のつもりであった。
「それがどうだ。屋敷を修繕していたかと思えば、簡単に風呂の用意をし、夕食さえ準備万端だと! ありえない。ありえないだろ」
湯に半分顔をつけ、ぶくぶくと口から泡を吹く。
(おかしいだろ。なんで伯爵家の令嬢にそんなことができる。
伯爵家の使用人が出入りしていたのか?
そんな話は聞いていないぞ。国は屋敷を直すために業者を手配したとは言っていたが、婚約者を寄越す伯爵家から使用人を派遣するとは言っていなかったはずだ)
ぶるぶると顔を振ったダニエルが、ぶはっと吹き出し、湯から顔を出した。
(あの娘が業者を指示しただと、さらには掃除もこなしていたというのか?
食事も自分で作ってか?
貴族の娘にそんなことができるのか。できるはずがないだろう。蝶よ花よと育てられた、水仕事一つしたことのないご令嬢に! そんなことが!)
湯船の縁に背を預け、身体を伸ばす。眼光鋭く、湯煙を睨む。冷静に考えろとダニエルは己を鼓舞した。
「あの娘は、刺客なのか」
できすぎた現実に疑念が湧く。
(伯爵家はあいつと結託していたということか?
俺がいまだに踏ん切りがつかずに足踏みしているから?
いや……、まさか、そんなことがあるか。ありえない。建前上、俺は元奴隷だぞ。プライド高いお貴族様のご令嬢が好んで来るわけがないんだ!)
屈託ない娘の笑顔が脳裏をよぎる。
心底歓迎していると物語る表情が思い起こされ、ダニエルは髭に隠れた唇をくっと折り曲げた。
「あの娘は、何者だ」
考えても答えは出ない。
ダニエルは伯爵家から来たという以外、娘について何も知らない。
知ろうとも、知りたいとも思っていなかった。
そもそも結婚話だって嫌々押しつけられたものなのだ。
ダニエルは何も望んでいない。頼んでもいない。
とにかく、今はまだ屋敷を修繕する気なんて更々なかったのだ。
なかったというのに……。
「……」
令嬢は姿を消し、朽ちた屋敷だけが残っているはずが、伯爵家から来た娘はたった一人で業者相手に交渉し、一月で屋敷を蘇らせてしまった。
「そんなことありえるか! おかしいだろ!」
向かっ腹を立てたダニエルが再び拳で湯面を叩く。天井近くまで水しぶきが高くあがった。
「この屋敷は俺のものだ。修繕するか、ともに朽ちるか。俺が決めるはずだったんだ!」
叫んだ言葉が耳に刺さる。
決めるという言葉に心臓が締め付けられた。
本当に決められるのか。修繕する気があるのか。
自問しても周回するばかりで答えなんて出ないのだ。
「だが、今じゃない。今じゃなかったんだ……」
波立った水面が落ち着いていくごとに、いきり立った気持ちが萎む。
「おかしいだろ……ここは俺の屋敷だ。突然きた奴がなんで、なんで……。なんで、こうなるんだよ。俺は聞いていないぞ」
ダニエルは両手で顔を覆う。
「ちくしょう……、ちくしょう……」
うめき声が霞みに消えた。
顔から手を離し、虚空に炯眼を射る。
「なんにせよ、あの娘は、少し……、いや、かなりおかしい。娘が何者なのか、まずはそこから問いただす必要があるな」
真剣な顔つきでダニエルは呟いた。




