一章:六話
旅立って一月後、ダニエルが帰ってきた。
疲れ切った足取りで、よろめきながらスキットルを呷る。時々、ふてくされた顔で、酒臭い息を長く吐き、眉間に皺をよせ、げっぷを漏らした。
嫌々帰宅するかのような千鳥足のダニエルだったが、屋敷の入り口に立った瞬間、手にしていた荷物を取り落とした。総毛立つ全身を硬直させ、目を点にする。
地面に落としたスキットルから、度数の高いアルコールがごぼごぼとこぼれていく。
棒立ちのダニエルがかっと両目を見開いた。瞬きを複数回繰り返す。腕を大きく払うと、汚れた袖で両目をごしごしと擦ってから再び顔をあげた。
右を見る、左を見る。
周囲の景色には見覚えがあった。
場所は間違いない。
しかし、屋敷の装いはまったく違う。
一月前にあった朽ちた屋敷が忽然と消えただけでなく、まるで魔法をかけられたかのように時間が巻き戻り、新築の姿を取り戻しているではないか。
あまりのことに声も出せず、ぽかんと口を開けたままのダニエルだったが、彼方に飛んでいく群鳥の羽音で正気に返った。無に囚われる顔色が一気に青ざめる。
唇を震わせ、ダニエルは絶叫した。
「いったい、ここで、なにがあったぁぁ!」
がらん、ごろん、がらん……。
けたたましく玄関のベルが鳴りわたる。
荒々しい響きは屋敷の隅々まで響き、厨房にいるエリンの耳にも届いた。
調理台で買い出しの荷物を仕分けていたエリンが、顔をあげ眉を顰める。
「誰がこんなにベルをかき鳴らしているの?」
独り言ちるや否や、取り換えた扉の鍵をダニエルは持っていないのだと、はっと気づいた。
「大変!」
生鮮品を氷室に押し込めたエリンは、調理台に並べていた品々を放置し、慌てて厨房から飛び出した。
ベルをかき鳴らすダニエルの腸は煮えくりかえっていた。
(寄りにもよって、いったいなにをしてくれたんだ!)
扉を開こうとしても鍵がかかっており、びくともしない。
鍵を取り換えられた扉は、無法者の侵入を許さない堅固さを取り戻していた。
「……っくしょう」
がんと扉を蹴っても足が痛むだけ。じんと響く痛みに一層怒りが掻き立てられる。
ベルの紐から手を離す。
拳でガン! と扉を横殴りした。
「ここは俺の屋敷だ! いったい、誰が、なにをしてくれたんだ!」
廊下を走りぬけ、エリンは玄関へ向かう。
その間も、ベルの音は一向に鳴りやまない。
業者であれば、慌てふためいていたとしても、こんなに荒々しくベルを鳴らしはしないだろう。
玄関ホールにたどり着くと同時に、ベルの音が止んだ。
ガン!
外で誰かが扉を強く叩いた。
ひるむことなく扉に飛びついたエリンは、すぐさま開錠し、両開きの扉の片方を押し開いた。
扉に手を添えて身体を乗り出す。まっすぐ前を見るエリンの視界に、日の光を照り返す石畳と爽やかにそよぐ青々とした芝生が映った。
しかし、目当ての人影はない。
エリンは両目を二度瞬かせる。
次の瞬間、真横からガンっと扉を叩きつける音が響いた。
肩をすぼめたエリンが、身を縮こませた。一呼吸置き、ぎくしゃくと仰ぎ見る。
片腕を扉に押し付けるダニエルがいた。
出ていった時と変わらない乱れた髪に、より一層薄汚れた衣類。ろくに剃っていない髭に埋もれた口からは、ついさっきまで酒を飲んでいたと思しき酒気を漂わせる。
酔いが回った赤ら顔。充血した白目。ぎらぎらした濃緑色の瞳。
戦慄く唇を隠し、微動する顎髭。
困惑を突き抜けた怒気滾る眼光に晒され、エリンの肚が底冷えする。
食いしばった歯の隙間から低い音を立てて、ダニエルは息をゆっくりと吐きだした。
(戸惑い? ううん、怒っている? 屋敷を修繕したから?)
事情を説明しなくてはいけないと瞬時に判断したエリンは扉から手を離し、居住まいをただす。屋敷の主が不機嫌であろうとも、流されず応対することこそ、仕える者の務めだと腹をくくった。
何人もの業者とやり取りをし、修繕を完璧にやり遂げたエリンは、すでにこの屋敷を管理する執事としての自覚が芽生えており、その心は佇まいにまで現れるようになっていた。
ダニエルが覆いかぶさるように迫る。
威圧されても臆することなく、エリンは平然とダニエルを見上げた。
何を言うか、それにどう答えるか。ダニエルが放つ第一声へと全神経を集中させる。
「おい」
低い声音は小刻みに震えていた。
怒りを堪えるあまりか、ダニエルからは威圧感が溢れて出ている。
「これは、いったい、どういうことだ」
怒っている相手に流されてはいけない。
動揺する素振りを見せてはいけないとエリンは気を引き締めた。
ダニエルを見つめ、最敬礼する。
「一月に及ぶ長旅。お疲れさまです、ダニエル様」
「かしこまった挨拶はいらない。これは、いったい、どういうことだ、と聞いている」
「はい。お屋敷は業者の方が来られたので、なおしてもらいました」
「そんなことを、許可した、覚えは、ないぞ」
「ダニエル様は、旅立たれる前に『勝手にしろ』と、私におっしゃっていました。ですので、言いつけに反した行為を行ったつもりはございません」
「はっ? 何を言っている」
「ダニエル様がお出かけになられた直後、屋敷の修繕を国に依頼されているという大工の方がいらっしゃいました。国から一部料金が支払われている状況にも関わらず、何度こちらを訪ねても誰にも会えずじまいで、仕事にならず困っていたと言っておりました」
ダニエルは忌々し気に目を眇めた。
「その後、家具を取り扱う商家の方や被服店の店主がいらっしゃいました。屋敷の修繕が滞っていたことで、物品の搬入が滞り、非常に困っているご様子でした。大工の方に至っては首が飛ぶのではないかと冷や冷やしていたと話されていたぐらいです」
眉間に皺をよせたダニエルが、あからさまな渋面を作る。
「ダニエル様は私がここに来た翌日早朝には旅立っておられます。国が屋敷の修繕を手配していたとしても、忙しさに伝え忘れていらっしゃっても仕方のないことです」
眦をわなわなと震わせるダニエルが視線をそらす。
憤りを耐え忍んでいると察知したエリンだが、ここで引く気はなかった。言質はとっている。むしろ、引いてはいけない。困り果てていた業者たちを思えば、判断は正しかったはずだ。外装のみならず、内装を見れば、ひいては暮らしてみれば、どれだけ快適になったのかも、わかってくれるはずなのだ。
「改めまして、ダニエル様。長旅、お疲れさまでした」
凛とした声で呼びかけたエリンが、合わせた両手を腹に添える。
まっすぐにダニエルを見つめれば、疎ましいと物語る彼の視線とかち合った。
気にせず、エリンは口上を続ける。
「修繕が済んだ屋敷にて、旅の疲れを癒し、お寛ぎくださいませ。無事にお戻りになられたこと、心より嬉しく思います」
ダニエルは舌打ちした。
気にせずエリンはにっこりと微笑む。不機嫌な主でも、親切丁寧にもてなすのが務めであり、これもダニエルの屋敷で働くための試練だと考えた。
「修繕の終わった邸内をご案内差し上げたいところですが、まずは英気を養っていただきたく存じます」
開いた扉を背にして、エリンは平手を返し、ダニエルを招く。
「どうぞ、まずは装いを新たにした邸内をご覧ください」
しぶしぶダニエルは内部を覗き見る。
二階の窓から降り注ぐ日の光が煌々と照らし出す玄関ホールを見た直後、ダニエルは全身を硬直させた。見開かれた両目の瞳孔が一気に収縮する。
「なんだ、これは……」
喉を絞られたかのような掠れ声でダニエルは呟いた。
新築同様、綻び一つない玄関ホール。艶やかな手すりが備えられた緩やかな両階段。厚みのある絨毯が敷き詰められている床や階段ステップ。窓は枠ごと取り換えられており、カーテンも真新しいものに変わっている。壁紙もくまなく張り替えられ、二階まで吹き抜ける天井にはシンプルながらシャンデリアまで吊るされていた。
滾っていた怒気が一気に鎮火する。輝く空間を見せつけられたダニエルの意識は白い灰となり吹き飛ばされた。徹底改装された状況に、言葉を失う。
そんなダニエルに、エリンは嬉々として話しかける。
「ダニエル様。気後れすることも、遠慮なさることもございません。ここはダニエル様のお屋敷です。どうぞ邸内へとお進みくださいませ」
こきこきと首を動かし、得体のしれない物体を眺めるように、ダニエルはエリンを見た。
キラキラと輝きを放つ身綺麗なエリンは、改装された邸内に相応しい姿をしている。
方や、泥臭いダニエルの姿は異様なほど浮いていた。
鼻につく酒臭さ、薄汚れたぼろぼろの衣類、何か月も切っていないもっさりとした黒髪、唇さえ隠すほど蓄えた無精髭。
朽ちた屋敷で暮らすには目立たずとも、一新された内装を背景にすれば、なにもかもがアンバランス。不釣り合いだ。
やりこめられた敗北感に襲われるダニエルから抵抗する気力が萎えた。
そんなダニエルにエリンは完璧な笑顔を向ける。
「ではダニエル様。整えられた邸内をご案内するのは後程としまして、まずはお食事になさいますか。それとも、先にお風呂になさいますか」
顎が外れんばかりに間抜けな顔をしたダニエルが棒立ちとなる。
(入浴や料理の準備が本当にできているか疑っているのかしら)
ダニエルの反応を勘違いしたエリンが、生真面目に補足し始めた。
「浴場も修繕し、湯の用意も簡単に出来るように設備も新たに改装しております。お湯も湯船いっぱいに、あっという間にたまりますので、ご心配には及びません」
「! そんな心配をしているわけじゃない!」
大慌てで否定するダニエルを、エリンは飄々と受け止める。
「お食事をなさりたいのでしたなら、もちろん料理もすぐにご用意できます。スープは適度に煮詰めておりますし、焼けばよいように肉は下処理を済ませ氷室にて寝かせておりますので、どうぞご安心くださいませ」
「いや、そういう意味でも……」
「では、肉の焼き加減になにかご希望でもございますか。ご希望がありましたら、できる限り対応させていただきます」
ぐいぐいくるエリンにもう何も言っても無駄だと悟ったダニエルが、がくりと肩を落とす。
「ふっ、風呂で……」
顔を片手で覆ったダニエルは指の間からの恨みがましい目を向けた。
「では、新しくなった浴場へとご案内いたします」
満面の笑みを浮かべるエリンが颯爽と歩き始める。
虚脱するダニエルは、背を丸めて肩を落とす。荷物を抱きかかえると、挙動不審にきょろきょろしながら、エリンの後ろを歩き始めた。
平日はしばらく、夜までの間に一日三回投稿します。
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