一章:三話:1
ぽつんと残されたエリンが部屋を見回す。
シングルの木製ベッドが辛うじて入る部屋は天井も低く、隅には埃が溜まっている。真正面にある小ぶりな窓には、ガラスこそひび入っていないものの、穴の開いた薄手のカーテンが申し訳なさげに垂れていた。
こんな狭い部屋は伯爵邸で例えるなら仮眠室だ。
(ムカデが出ないことを祈るしかない部屋って感じね。アメリア様なら、間違いなく卒倒しているわ)
ダニエルが開けていった扉を閉め、エリンはベッドの傍へ行く。
平手でぐっと敷布を押した。
思ったほど、埃が散らない。少し湿気ってはいても寝られない程ではなかった。
(来る前に整えてくれていたってこと? あんな夜盗みたいな風体で?)
薄手の掛布も畳まれて置かれている。
念のため準備していたのかもしれないと思うと、ちょっとだけむずむずした。口元が緩む。
ぼろぼろの屋敷だ。今は寝られるだけでも十分にありがたい。
「感謝するほどの出来栄えではないですけどね」
ふふんと鼻で笑うエリンの顔が微かに喜色を帯びる。
歩み、窓辺に立つ。外に目を向けた。紺色と赤銅色の二層にくっきり分かれる空が見えた。
ざっとカーテンを閉める。裂かれたような穴がぽっかり空いており、そこから光が射し込んできた。
(まるで薄っぺらい雑巾がかかっているみたいね。蝋燭一つない部屋にはちょうどよさそうだけど)
エリンは苦笑いを浮かべ、肩を竦めた。
次いで、隅にはった蜘蛛の巣を横目に寝具を整えた。
寝床さえ確保できれば、ひとまずよしと両手を叩く。
(あとは、明日掃除しよう。蜘蛛の巣も明日、なんとかしよう)
通常なら夕食の準備も終わっている時刻だが、こんな屋敷と主では、期待できるものはなにもない。自分の食い扶持すら確保できるかどうか怪しいところだ。
(ダニエル様は普段どうされているのかしら。食事とか、洗濯とか、あれこれ……。使用人が一人もいないのなら、すべて自分でやっているってことよね?)
気にかかるエリンは部屋を出た。元来た廊下を引き返す。
廊下の窓向こうへ、目を向けた。
地面はすっかり青黒く染まり、その色は空まで達っしていた。まるで庭草が伸びに伸びて、空と繋がっているかのようだ。濃紺に染まる天頂にはおどろおどろしい紫が射しこもうとしている。夜がひたひたと近づいてきていた。
足元が見えづらくなっていく廊下を進むと、枠をオレンジ色に光らせる厨房の扉が目についた。
(厨房にいるのかな?)
エリンは厨房の扉をノックする。軽く扉が内側に動いたため、さらに押してみた。軋む音を発し、扉が開くと酒臭さがむわっと鼻についた。
殺風景な厨房には、調理台をテーブル代わりに、酒を呷るダニエルがいた。干し肉をつまんだ手で頬杖をついている。調理台に散らばるのは干した魚や肉ばかりだ。
(乾物は腹に溜まるけど栄養は偏りそうね……)
調理台の端に置かれた燭台の蝋燭の炎がちろちろ揺れて、ダニエルの顔半分を照らしだす。眉間にしわを寄せる表情はどことなく苛立たし気であった。
飲んだくれている姿にどう声をかけたらいいか分からず、エリンは立ちすくむ。
ダニエルが干し肉を噛み切る。
ぼさぼさの前髪の間からエリンを睨んだ。
威嚇する獣のような目だが、エリンにはあまり怖いとは思えなかった。
夜盗のごとき風体の酒浸り男が、仮眠室のベッドを整えていたのかもしれないのだ。いそいそと勤しむ姿を思い浮かべれば、可笑しみがこみ上げてくる。
「なんだ」
ダニエルが濁声で牽制する。
「いえ。お食事とか、どうされているのかと思って。ここには使用人がいないと聞きましたし……」
「腹が減っているなら勝手に食え」
ぞんざいな物言いでダニエルは顎をしゃくった。
棚には、卵が入った平籠とパン、それに缶詰がいくつか積まれていた。
(まったく食料がないわけじゃないのね)
とはいえ、新鮮な野菜や肉といった調理できそうな食材は見当たらない。
エリンは調理台に近づきながら問うた。
「食事はご自身で作られているのですか」
「いいや。どうせ長居はしないし、食べるなら外に行く。そもそも俺は明日の昼前にはここを出る。さっきも言っただろ。北に東に俺は忙しいんだ」
ふんと鼻を鳴らしたダニエルが忌々しいと言いたげな顔で再び酒を呷る。
『北に東に忙しい』
ダニエルの素っ気ない言葉がエリンの胸に沁みる。身体がじんと熱くなった。
その言葉は、目の前の酔っ払いが紛れもなく、奴隷から成り上がった聖騎士ダニエルであることを示していた。
奴隷から平民になり、さらには聖騎士へといきなり大出世したとなれば、貴族らしからぬ風体で生活していたってなにも不思議はない。つまり、ダニエルは貴族の暮らしがなんたるかを知らないだけなのだろう。
エリンはダニエルのことを少し理解できた気がした。
「なんだ。なにか言いたいことでもあるのか」
「いいえ、なにも」
「だったら後は好きにしろ。俺にかまうな。もちろん、今すぐここを出ていったってかまやしないんだからな」
調理台を挟んでエリンはダニエルと向き合う。
「分かりました。しかし、もし、私がここで暮らすことを選んだ場合、食事など生活全般はどうしたらいいでしょう」
伯爵家でもらった給金を持ってきているといっても、雀の涙だ。手持ちのお金だけでは、ひと月暮らしていけるかどうか、いはんや危ういことだろう。
(何とかやりくりするにしても限界があるわ。明日から、一人でどうやって暮らそうかしら……。ここから一番近い商店街がどこにあるかも知らないし……)
カチャン。
考え込むエリンがはっと我に返る。
眼前の調理台に、さっきまでなかった小袋があった。
「これは?」
「金だ」
「お金、ですか……」
「必要なら買え。あとは勝手にしろ」
「勝手にしてもいいのですか」
「かまわない」
「本当に?」
「本当だ、何度も言わせるな」
「では、このお金も自由に使ってかまわないのですね?」
「ああ、もちろん。一人で暮らせるのならな」




