一章:二話:4
「入るか? 帰るか?」
せせら笑うダニエルは、エリンを試すかのように言い放つ。
この屋敷の内部を見ただろう帰るなら今のうちだぞ。そう言わんばかりの不遜さを言外に含ませた物言いに対しても、エリンは怖気づく気などさらさらなかった。背筋を伸ばし、胸を張って言い返す。
「入りますが、なにか」
酔っぱらいダニエルがへらへらと薄ら笑いを浮かべながら顔を近づける。
酒臭い息を吹きかかけられても、もうエリンは瞬き一つしなかった。
「帰らないのか。今のうちだぞ、こんな雨漏りする屋敷で、どうやって暮らすというんだ? 貴族のお嬢様が暮らせるような家じゃあないだろう」
「そうですね。まずは掃除をして、家の不具合を確認していきましょう」
「それでどうする? 寝床だってろくなもんじゃないと想像できるだろう」
「寒さと風雨をしのげればなんとかなります。ダニエル様がこのお屋敷に住まわれるつもりなら、業者を呼んで修繕の見積もりを取りましょう。でなければ、もっと小ぶりの家でいいので、買い替えをしてはいかがでしょうか」
冷静な返答をするエリンにダニエルが噴飯する。
「おもしれえ。こんな現状を見て、逃げ帰るかと思ったら、提案かよ。入るなら入ればいい。だが、言っておく。ここに快適な暮らしはない。使用人一人いないからな。水くみだって、料理だって、洗濯だって自分でしなくちゃならないんだ」
どうだと言わんばかりのダニエルだが、エリンはびくともしない。
そもそもダニエルがあげた内容はすべて毎日やってききたことだ。それこそ生まれてからずっと、である。一通り困る条件は何一つない。伯爵令嬢のアメリアなら逃げ帰っているところでも、エリンは違う。
「分かりました。すべて自分でこなせばいいのですね」
ダニエルが眉を顰める。これでとんぼ返りすると踏んでいたにもかかわらず、思いもよらない方向に話が進み、不快を露わにしたかのようであった。
エリンはダニエルの反応など意に介さず、御者へ目を向ける。
「私はここで大丈夫です」
エリンを子どもの頃から知る御者は少し心配そうな顔をしたが、これ以上何もできることはないと、ダニエルとエリンに形式的な挨拶をし、去っていった。
御者の背を見送ったエリンは残された荷物を室内へ運ぼうと試みる。二つある旅行鞄は重く、エリンの力では一つずつしか持てない。よろめきながら運ぶエリンが、やっとのことで二つの荷物をホールに運び込むまでダニエルは待っていた。
扉を閉めたダニエルが顎をしゃくる。
こっちへこいと言われていると解釈したエリンが、再び旅行鞄を一つ持とうとしたところで、あからさまに舌打ちしたダニエルが、その鞄をエリンから取り上げた。
「かせ! そんなにふらついていたら、時間がいくらあっても足りないだろ」
腹立たし気にダニエルが二つの旅行鞄を軽々と手に下げた。エリンにとっては一つ持つのがやっとという重い荷物でも、ダニエルが持つと、まるで中身は綿しか入っていないかのように軽く見えた。
「案内する。来るなら来い」
ダニエルが歩き出す。
慌てて、エリンも追いかける。
明かり一つない廊下を奥へと向かう。
外観と同じく廊下も破損が目立った。
壁紙が剥がれた壁や染みが滲む天井だけではない。絨毯が捲れた床はたわんでおり、隙間風が四方から流れてくる。どの窓にもカーテンがなく、窓枠も壊れている。はまるガラスも当然のようにひび割れていた。
(これは想像以上ね)
エリンはこっそり肩をすくめた。
呆れるも突き抜ければ、やりがいすら感じてくる。
前を見据えるダニエルが、低く沈む声で話し出す。
「ここにはなにもない。快適な暮らしも、心地よい寝床も。俺はすぐに北の砦に戻り、東の鉱山地帯に出張ることになる。居心地悪ければ、さっさと消えろ」
声音と視線、すべての態度から、歓迎されていないとエリンは肌で感じ取った。口調からして、返事すら求められていない。
使用人として慣らされてきたエリンは、黙し耳を傾ける。
「俺は厨房と使用人用の部屋を一つ使っている。今はまだ、寝て食べるだけの場所だ。居るというなら止めはしない。部屋はいくつもある。勝手に使え。俺にかまうな。挨拶だっていらない。帰りたくなったら、断りなく、勝手に出ていけ」
言い終わると同時に、ある扉をダニエルは足で蹴り開けた。
覗きこむエリンの目に飛び込んできたのは、がらんとした厨房だった。
火の気もなく、料理をしている雰囲気など微塵も感じられないというのに、なぜか最低限の調理器具はそろっていた。短期間しか暮らさないからだろう、ぱっと見、目ぼしい食材もなかった。
無言で体の向きを変えたダニエルが、廊下を大股で歩き出す。
慌ててエリンも小走りで追いかけた。
ある扉を顎で示したダニエルが「俺はここで寝ている」と呟き、通り過ぎる。いくつかの扉を横切った末、足を止めた。鞄を一つ床に置く。
空いた手で、ダニエルは目の前の扉を開けた。
「勝手に使え」
床に置いた鞄を持ち直し、ダニエルが入室する。改めて、鞄二つを床に置いた。
恐る恐るエリンも扉をくぐる。木製の簡易ベッドが一つだけ置かれた狭い部屋だった。
「ここが嫌なら、勝手に移動しろ」
エリンはぐるりと室内を見渡す。蜘蛛の巣が張り、天井からはほこりの糸が垂れている。
(使用人が使う部屋だけど……、ずっと使っていなかったと見えて酷いものね)
踵を返したダニエルがエリンの横を素通りする。
ぽつんととり残されたエリンは立ち尽くす。
開け放たれた扉から寂しい風が吹き抜ければ、張りつめていた気持ちの糸がぷつんと切れた。肩の力が抜ける。
(結婚とか、婚約とか、嫁ぐとか。それ以前の問題じゃない? そもそもこの屋敷、根本的に人が暮らせる状態じゃないでしょうが……)




