一章:二話:3
呆気にとられながらも、エリンは慎重にステップを踏み、馬車を下りた。
(こんなところで人がどうやって住むというの? 嘘でしょう……)
エリンは御者に目を向けた。
ここで間違いないんですかと視線を送れば、強張った顔で御者は首肯した。
場所が合っているというのなら、立ち尽くしていても仕方がない。
エリンと御者はそれぞれに鞄を持ち、ガタガタの石畳を進み始める。ヒールが高い靴が苦手で、踵が低い靴を履いてきてよかったとエリンは思った。
玄関先で立ち止まる。
屋敷を見上げた。
壁の塗装は剥がれ落ち、破損が目立つ。明らかな穴も壁に見て取れ、横殴りの雨が降れば室内が水浸しになると予見できた。ベランダの手すりも朽ちている。傾ぐ軒に、捲れる屋根。雨どいにいたっては支えを失い、今にも垂れそうだ。
(雨漏りしそうかどうかどころじゃないわ。これじゃあ、明日にでも屋敷そのものが崩れ落ちそうじゃない)
第一印象の期待を裏切らない、廃墟のような屋敷である。
(奴隷出身だからって、国のために働いた人に、この仕打ちはないわ)
道中、もっとましな空き家はたくさんあった。
国を守った聖騎士に、暮らすことさえままならないあばら屋を与えるとは何たるか。
奴隷は所詮奴隷でしかないと言わんばかりの国の対応に、エリンの腸が煮えくり返る。怒りを堪えつつ、御者と一緒にエリンは玄関扉前まで荷物を運んだ。
扉は大きく頑丈で、屋敷の壊れ具合にそぐわない重厚さがあった。
重々しい玄関扉をエリンは二回叩いた。待てども、誰も出てこない。
御者が、隅に垂れ下がる紐を見つけた。見上げれば、紐はベルとつながっていた。
手をのばし、エリンは紐を握る。ベルを見つめながら紐を引いた。
がらんごろんとけたたましい音が鳴り響く。
揺れるベルの動きを見つめ、手を離す。
ベルが止まる。音が止んだ。時が止まっているかのような静けさに包まれる。
しかし、誰も出てこない。
もう一度紐を引こうと、エリンが手を伸ばそうとした時だった。
「いったい誰だ!」
野太い怒声が飛んできた。
びくっと肩を震わせたエリンが手をひっこめる。
怒鳴り声が聞こえた扉に目を向けた。
耳障りな音を響かせ荒々しく扉が開く。
突如、無精髭を生やした大男が、鼻をつまみたくなる酒臭さを漂わせて現れた。
(誰!)
目を丸くするエリンと御者がひっと喉をすぼめ同時に慄く。御者は持っていた鞄を取り落とした。
「こんなあばら家になんの用だ!」
口元を覆う無精髭が目を引く、ぼさぼさの黒髪をした男が怒鳴る。
両目にかかる前髪の間から異様なほどギラギラした緑眼を覗かせ、エリンを睨みつけた。赤らんだ頬と充血した白目からして、今の今まで深酒に浸っていた様子が目に見えるようだ。
(ここはダニエル様のお屋敷じゃないの?)
エリンが目配せすると、御者は首を小刻みに左右に振った。道を間違えるわけがないという確信があるだけに、みすぼらしい男の登場に声を失っている。
(じゃあ。この人がダニエル様……)
奴隷からの成り上がりというなれば可能性はある。
とはいえ、空き家を根城にしている夜盗の線も捨てきれない。
だとしたら、早急に立ち去らねばいけない。
下手に相手を刺激してもいけない。
すぐさま背を向け、脱兎のごとく逃げるのが正解かもしれないが、御者のプライドを思うエリンは、ダニエルの屋敷か確認せずに立ち去ることもできなかった。
夜盗の根城なら、荷物を置いてでも逃げる一択に絞られる。エリンは音を立てないよう気を付けて鞄を置いた。静かに後ろ足をスカートのなかで後方に滑らせる。片足のつま先を石畳側に向けてからエリンは慎重に尋ねた。
「失礼ですが、こちらはダニエル・スネル様のお屋敷ではございませんでしょうか」
「はっ? だとしたら、何の用だ」
男が吐き捨てる。酒臭い息がエリンにかかった。
エリンは、ねずみ色のぼろを着た男を凝視する。
一瞬、使用人か用心棒かと脳裏をよぎったものの、こんな風体の者を雇う主などいるわけがない。長年、貴族の屋敷で働いてきた経験上、酔っ払い男が使用人である可能性はないとエリンは即断した。
(なら、やっぱり、この方が聖騎士ダニエル様……)
くたびれた服を着た、赤ら顔の酔っ払いが聖騎士だとは。
信じられない!
見た目はまさに、絵にかいたような夜盗の頭目だ。
(アメリア様だったら、泡をふいて倒れてそうね。もしくは、甲高い悲鳴をあげて、とんぼ返りしてそうかしら)
充血した目で男はじろじろとエリンを値踏みする。そのねちっこい視線だけで、アメリアならば不敬だ無礼だと激怒していることだろう。
男が腰をかがめた。エリンの顔を覗き込むと、わざとらしく酒臭い息を吹きかけてきた。
(こんな態度の主なんて最低最悪。普通の使用人なら逃げているわ)
心中であきれはてつつ、エリンは目を細める。軽く咽た。
しかし、ダニエルが奴隷出身というなら、このぐらいはありえると気を取り直す。北の砦という野蛮な地域で奴隷から成り上がったとなれば、こんなものなのだろう。
酒浸りでもなんでも、屋敷の主は主だ。
この程度でおじけづいてなるものか。
せっかく伯爵家から解放されたというのに舞い戻るわけにはいかなかった。
(どんな方であっても、誠心誠意尽くしていこうと決めたじゃない)
車内での決意を思い出し、己を鼓舞したエリンは、アメリアから教わったカーテシーを堂々と披露した。
「お初にお目にかかります。私はエリン・ミドルトン。ミドルトン伯爵家より、ダニエル様の元へと嫁ぎに来た者です」
落ち着きはらった態度で名乗るエリンに、男は目を見張る。エリンが顔をあげる瞬く間に、面食らったと悟られないよう、表情をあざけりのそれにすり替えた。
「今日か、お嬢ちゃんが来るのは」
「私の名はエリンです。恐れ入りますが、あなた様がダニエル様でいらっしゃいますか?」
「そうさ! この俺がこの屋敷の主人、ダニエルだよ」
ダニエルと名乗った酔っ払い男は乱暴に扉をあけ放ち、腕を組んだ。
どうだとばかりに片目を大きくしたかと思うと片方の口の端をあげ、エリンを小ばかにするように見下した。
方やエリンは、ダニエルの背後に広がる室内を見るや否や、表情から色を消した。
明かり一つない玄関ホールは絨毯も捲れ、むき出しの床板も割れている箇所が目立つ。暗がりに浮かぶ両階段の手すりは劣化が目立ち、ところどころ破損している。二階の窓辺にはぼろぼろのカーテンが揺れていた。
瞬時に状況を把握したエリンは、建物内部どこかしこも同じように荒れ果てているに違いないと見定めた。修繕費用を捻出できない貧乏貴族だって、こんな屋敷はとうの昔に売り払っていることだろう。
エリンは奥歯を噛みしめる。負けてなるものかと気張った。
破損箇所はすなわち修繕箇所。
掃除するだけではなく、土台からこの屋敷は立て直さねばならない。
(恐れることはないわ。私はこの方に尽くすために来たんだもの。ここで私は私のできることをするのよ)
帰る場所がないエリンは負けるものかと肚を括った。




