一章:二話:2
今でこそ英雄と呼ばれる聖騎士ダニエル・スネルも、元をたどればしがない一兵卒である。魔獣が生息する北の山脈地帯から国土を守る砦にて、兵士から志願し出世していった経歴を持つ。
グリズリーからドラゴンまで、彼が一人で狩れない上位の魔獣がいなくなった頃、隣国との間に戦争が勃発した。
昔から鉱山の権利をめぐって小競り合いが絶えない地域であり、火種は常に燻っていた。ここしばらく均衡が保たれていたというのに、突然、隣国が鉱山を占領しようと国境沿いの村を焼き払ったのだ。
村一つ消され、領土が隣国に取り込まれたとなれば有事である。
国も黙ってはいられない。
北の砦で名を轟かせていたダニエルも要請を受け駆り出された。
一騎当千。魔獣相手に鍛えられた剣技を用いるダニエルの働きにより、隣国との戦争はものの数か月で決着した。開戦一年後には停戦協定が結ばれ、曖昧だった鉱山の利権も我が国が独占することとなった。
隣国にも名が知れ渡ったことで、国はダニエルを英雄と称し囲い込む決定を下した。
そこで問題となったのが、彼が奴隷出身であるということ。
出自が壁となり、このままでは称号も褒賞も与えられない。
そのため国は、長年膠着状態にあった奴隷制の見直しに踏み切った。
まさに奇跡。
以前から幾度も浮上しては立ち消えるを繰り返していた議題が、一人の奴隷の働きによって決着がついたのだ。
(ダニエル様はすごい。本当にすごい人だわ。最下層の奴隷出でありながら、実力で道を切り開いたんだから。しかも認められただけでなく、長年問題視されていた制度を変えたのよ。一人の奴隷が、国の在り方さえ変えてしまったんだから)
ダニエルの功績に酔うエリンは自分の誉れかのように胸を張る。
(どう考えても、尊敬しかできない方だわ)
ダニエルがいなければ、エリンの人生も下働きのままで終わっていたことだろう。生涯日の目を見ず、独楽鼠のように働き、母のように恵まれず死んでいくだけだったに違いない。
未来を切り開くチャンスに手を伸ばそうと勇気を奮い立たせるどころか、いずれは仄かな希望も砕かれて、老いさらばえていたことだろう。
世界を動かしたダニエルは、その功績をもって、エリンの未来をも変えたのだ。
「とはいえ」
一呼吸置いたエリンが訝し気な面持ちで小首を傾ぐ。
「嫁ぐといってもねえ……」
実感が乏しすぎた。
アメリアから貴族の結婚とはかくあるものと概要を教わっても、いまいちピンとこないばかりか、母一人子一人で育ち、母を亡くしてからは働きっぱなしの毎日を送ってきたエリンにとって、そもそも家庭とは家族とは、夫婦とはなんたるか、そういった基本的なイメージからして漠然としていた。
(働くだけなら、わかるんだけど。料理人の手伝いもしてきたし、執事の仕事ぶりも見てきたし……)
悩まし気に眉を反り返したエリンは口元をうねらせる。
(嫁ぐってどんな感じなんだろう?)
身を捩って考えても見当がつかない。
うーんと唸ってからエリンはさっぱりと笑んだ。
「考えたって仕方ない。行けば、どうにかなるでしょう。兎にも角にも、ダニエル様の容姿や性格は大した問題ではないわ。すごい方だもの。多少の癖はあって当然。どんな方であったとしても、私は誠心誠意尽くしていくのみなのよ!」
意気揚々とエリンは顔をあげた。
窓から外へ目を向ける。
いつの間にか居並ぶ屋敷がどれも小ぶりになっていた。
空全体が紺色に染まり始め、各家の窓に明かりが灯り出す。オレンジ色に光る窓辺を、時折人影が過った。カーテンを引く人や、窓を閉める人もいた。
煙突から白い煙がぽつぽつと上り始める。団欒を楽しむ夕食準備の頃合いだ。予想通り、肉を焼く香ばしい匂いや野菜を煮詰めたスープの甘い香りがどこからともなく流れてきた。
長くした影と共に人々が帰路を急いでゆく。
小奇麗な屋敷が並ぶ区画を和やかに見つめていたところ、徐々に建物がまばらになってゆき、整備されていない土地が目につくようになってきた。
人の気配がが消えてゆくなか、とうとう朽ちかけた空き家ばかりとなる。
道も整備していないのか、ガタガタと馬車の揺れが大きくなってきた。
(ここが住宅街? 嘘でしょ)
雑草が子どもの背丈ほど生える更地ばかりが目に付く。ぽつぽつ点在する家はどれもこれも灯のない空き家ばかり。こんな寂れた一角が首都にあるなんて知らなかったエリンは目を疑う。閑散とした雰囲気どころではない。進むごとに、おどろおどろしさが増してゆく。
(まるで、寝物語に出てきたゴーストタウンそのものじゃない。
ダニエル様が奴隷出身だからって、こんな場所にある屋敷を与えるなんて! どういうこと? 奴隷は奴隷でしかないとでも言いたいの! 首都に住む屋敷だって国がダニエル様に与えるものでしょうに!)
奴隷は奴隷だと示すような扱いにエリンは憤りを覚える。
程なく、馬車が道沿いに停車した。
御者が開けてくれた扉から顔を出したエリンは凍り付く。
黄昏を背負う屋敷はどの窓も暗く沈みきっており、灯の欠片ひとつ見いだせない。寂れた屋敷は今にも暗がりのなかへ跡形もなく溶けていくかに見えた。
(ええっ! ここで。この有様で。どうやって暮らすの!)
公道から屋敷をつなぐ石畳は凹凸が目立ち、左右の芝生は雑草が踝まで隠れそうなほど伸びている。一か月以内に草刈りはしているようだが、一雨くればあっという間に伸びるだろう。
エリンの鼻腔を青臭く湿った臭いがむんとついた。




