一章:一話:2
奴隷の娘は奴隷止まり。それ以上にもそれ以下にもなれない。
貴族令嬢と下働きの差は歴然だ。
日々突きつけられる現実を目の当たりにするなかで、エリンはあの高みには決して昇れないのだと思い知らされた。
伯爵を見かけるたびに、腹立たしさを覚えた時期もあったが、立場上エリンは沈黙を選ぶしかない。
身分差の障壁はうずたかく、直視しては心が捩じれて病んでしまう。厳しい現実を飲み込むより他ないエリンは、下働きとして身を粉にして働くことで、あらゆることから目を背けた。
そんなエリンが十四歳になった時だった。
国が奴隷制の廃止を打ち出し、国中の奴隷が平民になるよう法の下で定められた。
そもそも時代の流れのなかで奴隷制度そのものが形骸化しており、奴隷と平民はすでに仕事上同等の扱いであった。強いて違いをあげるなら、所有される奴隷は、衣食住にわたりなにもかも報酬が現物であり、移動が制限されていたことぐらいだろう。
平民になったことで給金が支払われ、移動の自由が認められた。仕える貴族は所有者ではなくなるが、雇用者にはなる。雇用される以上、雇い主が気に入らなければ解雇もできる。
とはいえ、文字の読み書きが不十分な奴隷たちは、新たな世界に踏み出す羅針盤を持たないも同然。行く当てのない多くの者は現状の仕事を続ける道を選ぶこととなる。
故にエリンの周囲には平民になっても何も変わらないと不満を漏らす大人が多かった。
そんな声を聞き流すエリンは一人、給金を握りしめ、それは違うと思っていた。
(お金さえあれば、お医者様にかかることもできる。薬代だって払えるかもしれない。つまり、病気のお母さんだって治せたかもしれない。高額だろうし、一筋縄ではいかないだろうけど。細くても、道はある。あの時は駄目でも、今は違う)
若いエリンには、一握りの可能性でも綺羅星のように輝いて見えたのだった。
※
「奴隷上がりの平民には、同じく奴隷上がりのこの子で十分なのよ」
生唾を飲み込んだエリンは、アメリアの言葉の端々を振り返る。
(奴隷上がりの平民、嫁ぐ、婚約者……、これはアメリア様の嫁ぎ先の話。アメリア様は嫌がっている。理由は、結婚相手が奴隷出身の平民だから……)
つまり元奴隷でありながら出世し、貴族の令嬢を婚約者に迎えるほど成功した人物がいるということだ!
(すごい! なんて、すごい人がいるの!)
元奴隷の多くが未だ以前と変わらない生活を送っているなかにあって、まるでおとぎ話のような出世話にエリンは胸をときめかせる。
平民になったのだから、医者にもかかれるし、好きなものも買えるし、旅行にも行けるし、学ぶこともできる。
建前はそうであっても、それらを満たせるほどお金を稼ぐのは難しい。
当然、エリンの手元に残るお金も雀の涙だ。伯爵邸の一画に間借りしているため住居費も引かれている。どんなに数か月節制しても、アメリアが手にする刺繍が施されたハンカチ一枚買う金額さえ貯まるかどうか怪しいのが現実だ。
平民になっても奴隷時代と変わらない現実をひしひしと体感してきたエリンからしてみれば、貴族の娘を婚約者にできるほど出世するなど、ありえないことだった。
(そんなすごい人なのに……。アメリア様からしてみれば、奴隷出の平民は下賤の者にしか見えないのね)
希望さえどこにあるのか分からない、そんな現実のなかで成功を手にするなど、夢のまた夢。アメリアがどうあれ、エリンからしてみれば憧憬の対象だ。
(嫌がるなんて、私だったらありえないわ)
呆れるエリンそっちのけで、伯爵家の親子喧嘩が始まった。
「付け焼刃の娘をわが家門の娘として嫁がせることはできない」
「どうせ平民出の騎士でしょう、お父様。兵士からの成り上がっただけの男に、貴族の作法なんて見分けがつくわけないじゃない」
「まあ……、確かに。そういわれれば、そうかもしれないな……」
「あなた、なにを考えているの」
「アメリアの提案は考える余地がある」
「そうでしょう、お父様。そして私はもっと良い家に嫁ぐの。そうすれば娘が二人いる利益を享受できる、そう思わない。
お母様だって、こんな忌々しい娘を追い出す口実ができるのよ。いつまでも追い出しきれない臭いものを追い出せるのよ。こんな良いこと、ないじゃない」
アメリアの言い分に伯爵と夫人が無言になる。
重苦しい雰囲気を頭上に感じるエリンはじっと耐え、息を殺す。
「これは私の一大事よ」
アメリアがエリンの腕を強く引く。バランスを崩し、意図せず顔をあげてしまったエリンは、伯爵と夫人の値踏みするような視線に晒される。反射で目をそらした先には、アメリアの横顔があった。目じりを吊り上げ、両目をぎらぎら光らせる。薄化粧を施した華やかな面立ちでありながら、冷酷なオオカミが牙を剥いているかのような禍々しさが際立つ。
「付け焼刃でもなんでも、エリンに教えて、仕込めばいいのよ。どうせ日がな一日働いているのよ。それをまるまる教え込む時間にあてがえばいいわ。なんなら、私自ら、その役を担って、教え込んでやるわよ!」
エリンの胸にほのかな期待がきらりと瞬く。
(これはチャンス。チャンスなんじゃない)
このまま夫人の顔色を窺い、ただの下働きとして一生を終えるか、飛び出すか。ふってわいてきた突拍子もない話をエリンは冷静に推し量る。
夫人はエリンが生きている限り、亡くなった母同様、エリンを隅に追いやることだろう。年若くよく働く元奴隷の娘をメイドに昇格させる人事を行う夫人が、エリンだけは昇格どころか昇給さえ許さない。明らかに母への恨みは娘のエリンにも向いていた。母の面影を見るだけでなく、アメリアに似ていることも気に食わないのかもしれない。
誰かが昇進していく横で、指を咥えて眺めているだけの、朽ちていく未来しか、ここにはないのだ。
「絶対に私は、奴隷上がりの平民出なんかに嫁がないわ。社交界で上位の貴族の殿方と出会って、見初められて、婚約し結婚するの。小さい頃からずうっとそう決めていたのよ。お父様にだって、私の夢を邪魔させやしないんだから!」
両親に歯向かうアメリアの横で、エリンは思いがけない可能性に身震いした。
扉が開かれると同時に唐突にやってきたチャンスだ。ここで掴まなければ、母のように見捨てられ、蔑まれ、何者でもない人生を送り、一生を棒に振ることになるだろう。
(これは人生の分岐点だ。扉が開き、アメリア様が飛び出すと同時にやってきた。大きなチャンス!)
どんなに制度が変わっても、踏み出さねば何も変わらない。
綺羅星に手を伸ばし、掴むのは己しかいないのだ。
エリンはばっと前を向いた。
父らしい一面など一度も見たことがない伯爵を直視する。
顔をはっきり向けたのは、アメリアとよく似ている顔を見せつけるために他ならない。
怒られるかもしれない、鞭打たれるかもしれない。恐怖が一瞬よぎったが、意を決した。
(この場から、この現状から、逃れたい。そう思うなら、このチャンスをつかまなければ! 今のまま留まっても、私の将来は真っ暗よ!)
確信が発言を後押しする。
「私、嫁ぎます。アメリア様の代わりに!」
室内に響いたエリンの宣言に、アメリアは歓喜し、伯爵夫妻は渋い顔をした。




