一章:一話:1
水を張ったバケツを持つ、下働きのエリンが、反り身になり伯爵邸の廊下を進む。
端から順にフロアすべての客間を掃除しようと欲張って水を汲みすぎた。
よろめけば波打つ水から今にも雫が跳ねそうだ。
へりに雑巾を引っ掛けているとはいえ、一滴たりとも床にこぼすものかとエリンは気張る。
丁度その時。
通りかかった扉から金切り声が響いてきた。
「嫌よ、嫌。なんで、私がどこの馬とも知れない平民風情に嫁がなくてはいけないの」
ぎょっとしたエリンが立ち止まる。
誰もいないはずなのにと耳をそばだてれば、
「一人娘の私を、奴隷上がりの平民に嫁がせようだなんて、正気の沙汰じゃないわ!」
飛んできた癇声が耳を刺し、肩をすぼめた。息を詰めること寸秒。恐る恐る、声が響いてきた扉へと目を向けた。
(この声は、アメリア様のもの……)
ミドルトン伯爵家の長女アメリアに間違いない。
「北や東で功績をあげた英雄気取りの平民に貴族の娘を婚約者にしようだなんて、国も国よ。常軌を逸しているわ。しかも、それを真に受けて、私を差し出そうとするなんて! 信じられない。お父様もお母様も正気なの!」
誰もいないはずの客室が並ぶフロアの一室で、伯爵と夫人相手に臆することなく反抗するアメリア。内容は知れずとも、明らかに只事ではない。
(関わっても碌なことにならないわ)
知らず存ぜぬで立ち去ろうとエリンが前を向くや否や真横の扉がばんと開いた。
「国からの要請だからなんなのよ! 嫌なものは嫌よ!」
アメリアが飛び出してくる。
咄嗟にエリンは身体を仰け反らせた。身体が傾き、足がもつれる。持っていたバケツが左右に振れ、水が跳ねた。
辛うじて踏ん張るエリンと飛び出してきたアメリア、二人の視線がばっちり合う。両者同時に目を見開いた。
忽ち、悪辣な笑みを浮かべたアメリアが、飛びつくようにエリンの腕を取った。
呆気にとられるエリンは、抗う間もなくアメリアに腕を引っ張られる。
(やだ。バケツの水が零れちゃう)
雑巾を絞る水でアメリアのスカートを濡らしては一大事だ。
エリンは持ち手から引っ張られた片手を即座に離した。一方の肩がずんと重くなるなか、背面に寄せたバケツが揺れる。飛び散る水滴がエリンのスカートと靴下を湿らせたものの、辛うじてバケツを真後ろに置いた。
ほっとするのも束の間、エリンの腕を引くアメリアが室内に向かって吠えた。
「どうせ貴族の娘をあてがって、張りぼて英雄を国に縛り付けておきたい算段なんでしょう。それなら私じゃなくても、貴族の娘であれば誰でもいいじゃない」
アメリアが歯向かう先には、伯爵家の当主と夫人が並んで立つ。眉間に皺を寄せる伯爵と冷ややかな表情の夫人。二人の顔を凝視しては咎められる。エリンは慌てて俯いた。
「私だって知っているんだからね。お父様とお母様が隠そうとしていることを。
このエリンだって、お父様の血を引いているんでしょ。
私、知っているんだからね」
エリンは目を剥く。
(なんでアメリア様も知っているの)
伯爵家の隠された秘密は、エリンと伯爵、そして夫人。加えて、古くから仕えている数人の使用人しか知らないはずだった。
「アメリア!」
すかさず夫人の怒声が飛ぶ。
「なによ、お母様。私が知らないとでも思っていたの」
「そういうことではない」
伯爵の冷然な声が耳を打つ。
「お母様にとっても忌々しい娘を追い出せるのよ。お父様こそ、冷静に考えて。私をみすみす平民に嫁がせるより、平民には平民に相応しい娘をあてがって、私はもっと高位の貴族に嫁がせた方が得策でしょう!
奴隷上がりの平民には、同じく奴隷上がりのこの子で十分なのよ」
アメリアの提案に驚愕するエリンは、俯いたまま生唾を飲み込んだ。
※
誕生月が秋のエリンと春のアメリアは同じ年に産まれている。
アメリアの母が妊娠中、屋敷で働く奴隷に伯爵がお手つきし、産まれたのがエリンだ。
ひと時の過ちであり、奴隷が一人増える程度にしか考えていなかったのか、アメリアが産まれて以降、エリンの母に対し伯爵は関心を示さなくなった。
結果、母は一人でエリンを産み落とした。
幼少期のエリンは、母に守られ育まれる。包み込んでくれる母がいてくれたからこそ、貧しくとも心は豊かであった。父がいないことにも、さして疑問を抱かず、成長していくエリンは毎日に満足していた。
故に、母が人目につかない下働きばかりをさせられていることに、エリンは長らく気づかずにいた。
夫人に目をつけられて隅に追いやられていたと知るのは、母が亡くなってからのこと。
エリンが十歳を迎える前にエリンの母は病に倒れた。
死の間際、父が誰なのか、母はエリンに語った。
驚きはあったが納得もできた。
茶系の髪色に黒々とした瞳の色を持つエリンとアメリアは、双子と言われてもおかしくないほどに、面立ちがとてもよく似ていたからだ。
程なく真実を告げた母は亡くなってしまう。
一人残されたエリンが、遠い存在に感じていたアメリアを目で追うようになったのは、この頃からだ。
美しいドレスやアクセサリーを身に着け、豪華で美味しい食事を食べ、令嬢としての過不足ない教育を受けるアメリア。両親の愛を一身に受け、弟二人にも恵まれて、順風満帆な人生を歩んでいる。
一方エリンは、使用人用の制服と私服数着しか持たず、薄いスープとひとかけのパンを常食とし、伯爵家の食べ残しを適宜頂くといった粗末な食事しか食べられない日々を送っていた。
頼れる母をも亡くし、天涯孤独となったエリンが、諦めを学ぶのも時間の問題であった。




