四章:二十八話:6
悲鳴、怒声、足音。
ダニエルの語りから、聞こえないはずの音が聞こえてくる。
幼いダニエルの体験を垣間見る、奇妙な錯視とともに惨劇の緊張感がびりびりと伝ってきた。
現実であるはずのダニエルの靴音が、まるで夢の中で響く架空の音のように遠く感じられた。
「二人いた護衛のうち一人が、俺の逃走を成功させるために残ったのは、こういう時はどうすると、前々から示し合わせてのことだったんだろうな」
幼いダニエルが闇夜に紛れ、逃げ延びる。
屋敷が遠ざかってゆけば、悲鳴や怒声も霧散し、鼻をつく血の匂いも消えていった。
「暗がりのなか、逃げた。
どこをどう走ったのか。記憶もない。
気づけば首都を出ていた」
現の廊下へとエリンの意識は引き戻される。
残影が消え去れば、装飾豊かな天井高の廊下が広がるばかりであった。
「首都を離れてすぐ、衣類を焼き捨てた。
農村地帯で盗んだ服に着替え、俺たちは北に逃れた。
薄汚れた俺たちは疑われることなく、北で奴隷に紛れて働き始める。
北に逃れた直後、しばらく記憶は曖昧だった。
どこからきて、何をしていたのか、記憶はあるというのに、まるで他人の過去のように遠く感じていた。
一緒に逃れた騎士の手ほどきを受け、強くなってからやっと過去を実感するようになった。
イラつくこともあったとはいえ、じきに慣れ、受け止められるようになった。
幕開けた新たな人生が体に馴染むごとに、首都での暮らしは記憶から薄れ、遠くなる。
まるで第一王子であったことが前世の記憶であるかのようだった。
俺は生れながらの奴隷であったかのような気さえしていた。
場を離れ、立場が変われば、人生も変わるものだ。
後はエリンも知っているだろう。
東の功績が認められ、称号や褒賞を与えられることになった。身の上を明かしていない以上、突っぱねることができなかった。
とはいえ、首都に戻ると決めたのは俺だ。
あの屋敷を所望したのも俺だ。
弔うため、吹っ切るため、首都に戻ってきた。
首都に戻るには、あの屋敷しかない。そう思っていた。
だが、いざ戻ってみれば、屋敷の有様に……、言葉もなかった。
ショックだった。そう言葉にすれば、簡単なものだが、一言では言い尽くせない。
頭では分かっていても気持ちがついてこない。
なあ、エリン。
エリンが伯爵を見て、憤ったのと似ていると言えば、似ているだろう」
ダニエルの歩調が緩む。
変化に気づいたエリンが顔をあげた。
ダニエルの視線に促され、壁を見やる。
三枚の絵画が飾られていた。
真ん中はダニエルによく似た前王。
左右には、太合と幼い陛下、第二妃と幼いダニエル。
厳かな三枚の絵画からは、この後辿る数奇な未来など欠片も想像できなかった。
輝かしい絵画には、一点の曇りもない。
陰り一つないからこそ、隠された悲哀に心が締め付けられる。
光溢れる色合いも、精緻でありながらまろやかな筆のタッチも、もはやさめざめと泣く眼差しで、画家が見ていたからではないかと勘繰ってしまうほどだ。
美麗さは、その在り様を知り、物悲しさを醸し出す。
胸が締め付けられるとはこういうことかとエリンはしみじみ感じ入る。
「陛下は、どんな気持ちで、母親を陥れたんでしょう。前王様の遺志とはいえ、母親を貶めるなんて……」
普通じゃない。理解できない。
そう言える立場にはないとしても、あまりにもやりきれない。
母を貶めるなんて考えられないエリンには到底できないことだ。
「ダニエル様とホールで踊っている時も、私の足元で太合様が裁かれたのだと思うと、足が重くなるようでした。
私にとって、母との関係や思い出はとても大事なものだから、背景や事情がどうあれ、そう簡単に受け入れない、腑に落ちない、割り切れない、それだけなんだと思います」
ダニエルが足を止める。
「陛下の判断に異を唱えるつもりはないんです。
ダニエル様だって、陛下の味方についているわけですし。
地下聖堂で太合様を前にして剣を振り上げなかったダニエル様が、どんな気持ちで陛下に協力しているのか」
屋敷の玄関先で顔を突き合わせた時、夜盗のような風体の酒臭いダニエルが、見た目とは裏腹にどれほどの葛藤を抱えていたのか。
思い起こすエリンは再び後悔とやり切れなさに包まれる。
「父の遺志を継ぐベイジルに協力しようと決めたのも俺だ。
太合へのけじめもあるが、ベイジルの申し出を支持したのは、残してきた弟への負い目があったからだ。
風の噂で、父が死んだことも、弟が即位したことも知っていた。
俺がしゃしゃり出ても混乱させるだけなことも分かっていた。
陰ながら役に立てれば本望だと心から本気で思っていた」




