四章:二十八話:5
「屋敷を勝手になおしてしまって……、ごめんなさい」
声は小刻みに震えていた。
ダニエルがぴたりと足を止める。すぐさま踏み出し、歩調を戻す。
「なぜ、謝る? エリンの判断は間違っていなかった」
「帰宅した時、ダニエル様、怒っていましたよね。勝手になおしたって」
「それは、まあ……。あの時はな」
「私は、屋敷を修繕することがいいことだと思っていました。
一月も屋敷を空けるようなダニエル様が、腰を据えて屋敷を修繕するなんてできないでしょう。
それなら私がって気持ちになって。
大工の棟梁も困っていたし、渡りに船と思ったんです」
「俺だって、いずれは修繕しないといけないとは思っていた。想定していたより早かっただけで、結果は変わらない」
「でも、ですよ。でも、私。忙しいダニエル様の代わりに屋敷を修繕して、認められたい、褒められたいって。身勝手ともいえる。そんな自分本位なことを考えていた一面もあるんですよ。
綺麗になった屋敷を維持するにも人手がいります。伯爵家にも戻りたくなくて。ダニエル様の屋敷で働き続けたいがために、理由欲しさに修繕したんです」
「良い判断だった」
剥がれた壁紙や床、カーテンのない窓、割れた窓ガラス。雨漏りする朽ちた屋根、垂れた雨どい、階段やベランダの手すりも半壊していた。設備も古めかしく、大工が来てくれなければ、一月暮らせていたかどうか、怪しい状況であったのは事実だ。
だとしても、今となっては、その判断が正しかったか。正しかったと言っていいのか。ダニエルが肯定するからこそ、エリンは自信が持てなくなっていた。
旅から戻ったダニエルに対し、修繕こそが正しいと胸を張って言えたのは、事情をなにも知らなかったからだ。
「戻られた時、ひどく怒ってました。なにも知らない私が、勝手なことをしたから、怒っていたんですよね」
大工が来て、店主たちが来た。彼らは一様に国からの依頼であると告げた。国のお墨付きのもと、全権を握り、あたかも屋敷を取り仕切る責任者のような気分になっていた。
調子に乗っていた。
エリンは振り返って、そう思う。
勝手な振る舞いだと自覚してなお、謝れば許してくれるダニエルの優しさに甘え、安易に謝ろうとしている、己のずるさも不快でならない。
あさましい。
そう自覚しても、事実を知った手前、謝らずにはいられなかった。
地下聖堂で気づいてしまった罪悪感を胸に燻ぶらせたまま、ダニエルの傍にいては、いずれ苦しくなるだけだろう。
前を見据えるダニエルが語り始める。
「屋敷を修繕し、吹っ切るべきだとは分かっていた。
踏み出せないでいたのは俺自身の問題だ。
屋敷に戻ってきた時、残っている傷跡一つ一つに記憶が重なって。俺だけが逃れ、生き延びてしまった現実をまざまざと見せつけられた。
これでも北で暮らすうちに、吹っ切ったつもりではいたんだ。
だから、首都に戻る決意もできた。
あんなふうに、ぶり返すことになろうとは、戻ると決めた時は思ってもいなかった。
信ぴょう性がないと思うかもしれないが、これもまた本心だ」
わかる気がするとエリンは思った。
伯爵が、我が娘と言い、頭を下げた瞬間。
突き抜けるように走った怒りは、エリンにとって予想もしない激情だった。
心の底に、まだこんな怒りが、不満が、やるせなさが残っていようとは、想像もしていなかった。
「襲われた夜は覚えている。屋敷へ居を移して一年程経った、新月の夜だ。
言い知れない不安、いつもと違う空気の振れに感化され、夜中に目覚めた。
直後、俺が目にしたのは、振り下ろされる白刃だった。
殺されると思った。逃れた直後、鈍い音がした。護衛が刺客を殺したんだ。目の前で人が死んだ。首半分を赤く染めて、親の敵かと言わんばかりの目を俺に向けて。俺は吐き気を催した」
淡々としたダニエルの肉声がエリンの皮膚にこびりつく。
どこからともなく血の臭いが漂い出す。
天井高の廊下が霞む。
居もしない人影が、ダニエルとエリンの横をかけ抜ける。荒々しい足音の空耳が聞こえてきた。
エリンの視界にダニエルが語る世界が写り込む。
「護衛に抱えられ、逃げた。母を置き去りにして。その時、一瞬だけ母を見た。怒っても、怖がってもいなかった。俺を見て、ほっとしていた。そんな気がする。
隠れた母を狙い刺客が剣を振り上げた。
俺は、そこまでしか見ていない。
階下は散々だった。使用人が次々に殺されていくなか、切り伏せた刺客から腕章をもぎ取ると、俺を守るに徹する騎士は逃走をはかった。担がれた俺は泣きながら、護衛の背を叩いた。お構いなしに抱えられ、俺は逃げた。逃げたんだ」
一太刀で切られる人影。
血を流し倒れこむのは使用人たち。
ほんの数時間前まで親しく語らっていた人々だ。
倒れ、動かない人を跨いで、駆ける。
火花を散らす煌めく白刃が過る。
残る護衛の大きな背中が小さくなっていった。




