四章:二十八話:4
エリンは唇を薄く噛む。眼球が濡れ、視界が霞んだ。
「こんなところで娘よばわりするぐらいなら、母を……。お母さんを助けてほしかった」
「……」
「助けられたんですよ。だって、あの時はまだ、私たちは……」
奴隷だったから。所有物だったから。
所有者である伯爵なら、母を医者に診せることもできたのだ。
「忘れてたんでしょう。私のことも、お母さんのことも。私たちのことなんか、私たちのことなんか……」
伯爵への恨みを吐露しながらも、怒りに飲まれそうになっている自分自身に対してさえエリンは嫌気がさしていた。なにもできなかったことへの後悔が蘇る。
青空のもとで得た、吹っ切った感覚さえ、まるで幻であったかと思えてきた。
泣く資格さえないかのような慙愧に絡めとられるエリンは喉を殺す。
嗚咽一つ漏らすことさえ耐えがたかった。そんな資格すら、ないような、そんな罪の意識に囚われる。
ダニエルは進む。
エリンの身体が揺れる。
小さな振動は荒ぶ心を鎮めてゆく。
エリンがダニエルの肩を両手で押した。
今にも泣きだしそうな顔でダニエルを見下ろした。
「もう、いいです。降ろしてください。ここまでくれば、誰も追いかけてはこないでしょう。私、一人で歩けますから」
「気にするな。馬車までは遠い。歩けば、また足が痛む」
「でも……」
「明日からの仕事に差し支えるぞ」
そう言われてしまうとエリンは弱い。顔を背け、ダニエルの首元に腕を回した。涙一滴流したくないと意地を張れば、口元が醜く折れ曲がった。
規則正しく揺られ、身体から力が抜けてゆく。
高ぶった感情が、微かな振れに宥められる。
濡れる瞳を瞬かせ、天井に視線を向けた。
冷たい涙を飲み込み、エリンはダニエルに自重を預けた。
力が抜け、軽くなった心身に、アメリアと対峙した激情が蘇る。血が沸騰するかのような感覚が指先や足先まで浸みてゆく。
(使用人として弁えていられるのなら、ダニエル様の隣に、どんな婚約者が立っても、不満を感じることなんて、ないでしょうに。理想の主に仕えて満足していられるのなら、こんな風に、腸が捩れるほどの、激情に、飲まれたりは、しないわ)
どんなに否定の文言を紡いでも、本心は覆い隠しきれない。
ダニエルの隣に花嫁が立つ想像図を、迷いなく叩き割った感情の正体がなんなのか。
認められないほど、エリンは子どもではなかった。
(あれは嫉妬だ。
ダニエル様の横に他の女性が立つこと。
そのすべてに嫌悪する心そのもの。
ダニエル様の隣に誰がいても嫌だという、我儘ともいえる、私の我だ)
エリンはダニエルの首筋を強く抱く。
(ダニエル様の傍にいるのは私)
おこがましいことだ。
身分不相応というアメリアの言い分も重々理解できる。
しかし、ダニエルは言った。
アメリアを振り払った時に、打診された時点で伴侶はもう決まっていた、と。
言葉の意図がなんなのか。
真意はどこにあるのか。
反芻すればするほどに、まるでエリンでなければダニエルの婚約者に選ばれることはなかったという意味に聞こえてしまう。
そんなわけないと自意識が否定してこようとも、ダニエルが発した言葉まで捻じ曲げることはできなかった。
「ダニエル様……」
「なんだ」
「あの時、言っていた。アメリア様が選ばれることはないって……。どういうことですか」
「あれか」
薄ぼんやりと問うエリンに、ダニエルもまた上の空で答える。
「まるで始めから、ダニエル様の婚約者は決まっていたみたいな言い方でした」
「表に出せない娘がいる家に打診したとベイジルが言っていたからな。
あらかじめ目星をつけていた、いくつかの貴族に声掛けしていたんだろう。
俺も身の上を明かしていないからな。断られることを前提にしたうえで、表に出せない娘をあげた貴族のなかから、エリンを選んだ。言うなれば、背景はそんなところだろう」
「屋敷の惨状を前にしても、帰らない者を選んだということでしょうか」
ダニエルは答えに窮する。違うと言い切るには、ベイジルから内々の事情まで詳しくきいていなかった。
エリンは強く瞼を閉じる。
浮かんでくるのは、屋敷に残された数々の傷跡だ。
壊れた手すり、破れたカーテン、めくれ軋む床。時間とともに朽ちたというには、壊れ方が尋常ではなかった。
過去を想起する屋敷で、ダニエルがなにを思い、酒浸る日々を送っていたのか。
考えるだけで、エリンの胸がひりつく。
苦しく、悲しく。申し訳なさに包まれる。
目を開けた。
ホールに通じる扉が小さくなり、警備の騎士たちも置物のように見えた。
息を吸う。吐く。喘ぐように、もう一度。
(言わなきゃ)
ここで言葉にしなければ、もう二度と触れるチャンスはないだろう。
日常に戻れば、うやむやのまま流れていく。
エリンは大きく息を吸った。
意を決し、言を紡ぐ。
「屋敷を勝手になおしてしまって……、ごめんなさい」




