四章:二十八話:3
腕にかかるアメリアの手を払ったダニエルが、
「あなたが選ばれることは決してなかったということだ」
と、念を押す。
ダニエルに向けなにか言おうと、アメリアが口を開きかけた時だ。
背後から伸びてきた手が彼女の両肩に触れた。
手をのせたのは伯爵夫人、アメリアの母である。彼女はアメリアを強く引き、数歩後退させた。
横から進み出た伯爵が、妻と娘の前に立つなり、深く頭を下げた。
「無事、ご帰還された殿下に心よりお慶び申し上げます」
ダニエルが眉を顰める。
これがエリンの父かと伯爵を見下ろした。
「先ほどのダンスを拝見し、我が娘を気に入っていただけましたこと。心より嬉しく思います」
不満げなアメリアに夫人が黙りなさいと目配せする。
無表情で様子見するダニエルの横でエリンの肩が震えだす。
みるみるダニエルに乗せた手に力がこもった。
(なにが我が娘よ! お母さんを見殺しにしたくせに!)
母が病に倒れた当時、子どもであったエリンに助ける術はなかった。
動けなくなった母の代わりに働く。
やつれていく母の傍らで、笑って見せる。
寂しい、悲しいといった一切合切の感情を殺して、無力さを耐え忍ぶ。
幼いエリンにできることは、それだけだった。
母を亡くしてエリンは気づいた。
父なら、伯爵なら、母を助けられたのだと。
所有される奴隷であるからこそ、伯爵の指示一つで、医者に診せることができたのだ。
伯爵に母を助けてと懇願することさえしなかったエリンは、気づくなり、耐えがたい後悔に苛まれた。
自己嫌悪にのみ込まれ、まるで母のためになにもしていなかったかのような錯覚に涙した。
泣きくれても、日は巡る。
無力と向き合う代替に労働に勤しんだ。
母を助けなかった伯爵は、その後も、エリンを下働きのままとし続け、見向きもしなかった。
それが何を意味するか。分からないエリンではなかった。
母も、エリンも、伯爵にとってどんな存在か。
言葉にすることさえしなくない。
認めたくない、知りたくもない。
声に出してさえ、聞きたくもない。
自覚すらしたくない。
働き続けるなかで、身体を動かすなかで、向き合わないようにしてきた事実。
エリンは、片親にとって、始めから、生まれずとも良い命だったのだ。
(今更、なにを……。なによ! のうのうと我が娘なんて!)
唇が戦慄く。
呼吸が細切れる。
長年、母子ともどもいない者として扱ってきた伯爵に対し、エリンの怒りは瞬時に沸点に達した。
横に立つダニエルにも、手を介し、怒気が伝う。
不快が入り混じった刺々しい憤怒が流れ込めば、その心がもたらす痛みにダニエルは苦渋の表情を浮かべた。
突如、屈したダニエルがエリンのひざ下に手を差し入れる。有無を言わさず、抱き上げた。
「ダニエル様!」
「静かに」
制したダニエルが、泡を食うエリンを横抱きにする。
足場を失ったエリンは咄嗟にダニエルの首筋にしがみついた。
ダニエルが伯爵家の面々を白眼視した。
ひるむ伯爵の顔から血の気が引く。
「俺の伴侶になるということは、いずれは王家の一員となる。なれば、エリンの一挙手一投足が、貴殿らの命運にも深く関わってくるということ。容易に想像つくであろう」
「もちろんでございます、殿下」
伯爵が屈折して頭を垂れる。夫人も習う。アメリアも夫人につつかれ、頭を下げた。
「ゆめゆめ立場をわきまえられよ」
ダニエルが伯爵に背を向けた。
抱き着くエリンの視界に、伯爵家三人の後頭部が映る。御者と馬車だけ用意し、勝手に行けとばかり追い出した、伯爵家の面々だ。
(なによ。今更、なによ。今の今になって……)
ダニエルの歩幅は広く、あっという間に遠ざかる。ホール全体へ広がったエリンの視界に、静観している貴族たちが写り込んだ。
(お母さんを見殺しにしたくせに。助けなかったくせに)
喉元まで出かかった言葉をエリンは飲み下した。
公衆の面前で醜態を晒すわけにいかない。ダニエルに迷惑はかけられないと、エリンはダニエルの首を抱き込んだ腕と手で口を押えた。
振り返ることなくダニエルがホールを出る。
両開きの扉が示し合わせたかのように閉じられていく。
華やかな舞台が狭まっていき、ぴたりと扉が合わさった。
扉周りに立つ警備の騎士が敬礼し、エリンとダニエルを見送った。
規則的な靴音を響かせて、ダニエルは天井高の廊下を進む。
壁には大小さまざまな絵画が飾られていた。
伯爵家の面々が見えなくなり、エリンの憤怒も徐々に沈静化していった。
深呼吸する。
落ち着いてくると、子どもじみた感情がまだこんなにも残っていたという事実に、エリンは驚くばかりであった。
(期待しても仕方ないって気づいて、吹っ切れたと思っていたのに……)
食道がひりひりする。空っぽの胃から酸が上ってきたようだ。乾いた口内で、唾を飲むように空気を押し込み、胸やけを堪える。
「あの家からきたのか」
歩きながら問うダニエルに、エリンは小さく首肯した。
「夫人とアメリア嬢。見るからに二人とも気が強そうだな。
伯爵は、先祖代々受け継いできた領地や権利を守ろうとする凡庸なタイプに見受けられる。
波風をたてず、家門を守る。過剰な野心を持たない保守的な貴族だろう。可もなく不可もない。ベイジルが選んだだけはある。良くも悪くも格式と伝統ある貴族と言えるな」
「もう吹っ切ったと思ったのに……」
「顔を見れば、思い出す。至極、当然だろう」
「なんで頭を下げれるのか、理解できません」
「あれは立場に頭を下げていると思えばいい。エリンも俺も、彼らの眼中にはない。地位や家門、領地、資産。そういった分かりやすい指標に頭を垂れているだけだ」
足を止めたダニエルがエリンを抱きなおす。抱え込み、大きな手でエリンの頭を包む。二度軽く叩き、泣きたいならば泣けばいいと頬を寄せた。




