四章:二十七話:6
部屋を出て廊下を進む。
エリンを迎えに行く。そう思うだけで抑えようもなく心が弾む。
己の変わりようにダニエルは苦笑するしかなかった。
婚約者なんて居ても居なくても変わらない。
国から押し付けられたって迷惑だ。
そう考えていたからこそ、エリンが来ても出ていけと突っぱねる真似ができた。
金貨を渡して去れと言えた。
(追い出そうとしておいて、この体たらくか。まんまとベイジルの思惑にはまり込んでしまったな……)
人生とは、どこでなにがあるか分からないものである。
部屋を後にしたダニエルが速足で廊下を進む。
拍動が増す。
地下聖堂の儀式を終えて、エリンを迎えに行く時だって、こんなにも心臓は脈打っていなかった。
閉じた心と言うなれば、エリンの心もまた頑なであった。
(原因を作ったのは俺だがな……)
故に、彼女の意志を尊重するしかなかった。
踏み込めず、ほぼ足踏み状態が続いていた。
平行線が崩れる予兆などまるでない、はずだった。
今朝までは……。
ソフィーに指摘され、エリンの変化に気づいた。
あずかり知らない所で、エリンの気持ちが変わっていたのだ。
どうして気付かなかったのかとダニエルは自問する。
思い返せば、夜会のために迎えに行き、鏡越しに目が合った瞬間から、どこか今までと違っていた。
潤んだ瞳に当てられて、足がすくんだことは覚えている。
思い出すだけで、今もどことなく気恥ずかしい。
鮮明に思い出すと身体の感覚まで再現されるようで、ダニエルは身もだえそうになった。
その場にしゃがみこみたい衝動に駆られたものの、エリンがホールで待っていると気持ちを奮い立たせた。
軽いのか重いのか。
よく分からない足を動かす。
着替え終えたエリンを迎えに行った時、ドレスアップした姿を見て、心臓が跳ねた。悟られないよう取り繕ったつもりだったが、動揺は隠しきれていなかったに違いない。
まるで野花のなかに生まれたての妖精を見つけたような気持ちであった。嫋やかな後ろ姿に息を呑み、気軽に近づいてはいけないと芯が震えた。
胸元で合わせた拳を下したエリンが、ふわりと広がるスカートを摘み、振り向く瞬間。流れる所作を、瞬きも忘れて見守っていた。
ちゃんと呼吸できていたかさえ思い出せない。
微笑むエリンが目に飛び込み、彼女の周囲が色づいた。
空間全体に良い匂いが漂いだし、ここは花畑かと揶揄したくなった。
照れくさく、エリンと向かい合うにも小恥ずかしい。天井に床に視線を逸らす。曖昧な態度を続けていては恰好悪いと頭では分かっていても、そわそわした。
頬を一度ぶちたくなり、愚かしさに止めた。時間もない。意を決し、エリンを見た。
結い上げた艶やかな髪。薄化粧を施された困惑気味のはにかむ表情。レースをふんだんにあしらったドレスは、屋敷で試着した時よりずっとエリンに似合っていた。
被服店の店主は良い仕事をしてくれたと思った。
たまらず、大きなため息が漏れた。腰に拳を当てて、身を捩り、ここで緊張してどうすると心の内で叱咤し、襟を正した。バクバクと脈打つ心音が、部屋中に響いているのではないかというほど鼓膜を打つものだから、動揺を悟られないように慎重に歩を進めた。エリンの前に立てば、見上げる彼女が眩しくて、それでも元は第一王子だろと言い含め、昔取った杵柄よろしく、彼女の手を取った。
未だ、思い出してもダニエルは気恥ずかしくなる。
伴って歩いた廊下。中二階に出るため、一緒に潜った引幕。螺旋階段を下る時も。終始エリンは、ダニエルの横で笑顔であった。
ひとしきり思い出したダニエルが、ホールに向かう途中であるにもかかわらず、足を止める。背を丸め、全身が火照るあまり、頬から首にかけて撫で摩った。
「そんな都合よく……」
呟くダニエルが、身もだえするように首を回し、眇め舌打ちする。
天井に顔を向けた。
束の間静止し、前を向く。歩き始めた。
階段を下り始め、最後の踊り場を回り込んだ。ホールに通じる廊下が見える。間もなく降りきるというところで、人影が横切った。追いかけてきた少年が立ち止まり、階段を指す。
「そっちじゃないです。階段を上るんです」
駆け下りるダニエルが少年の前に飛び出した。
「ダニエル様」
少年ことカーンが目を剥く。
「ソフィー様、ダニエル様です!」
カーンが呼びかけた先にダニエルが顔を向ける。
背を向けるソフィーがぴたりと足を止めた。反転するなり、ダニエルを見つける。
「殿下! 良いところに」
ソフィーがスカートをたくし上げ、走ってきた。
あれが生粋の公爵令嬢かとダニエルはぎょっとした。
「大変です、殿下。エリンさんが!」
駆け寄るソフィーがダニエルの目の前に立つ。見上げ、必死に訴える。
「エリンさんが、叩かれたの。私、飛び出せないから。殿下なら」
表情を一変させたダニエルが身をひるがえし走り出す。
あまりの素早さに驚いたソフィーがバランスを崩す。転びそうになる彼女を慌ててカーンが支えた。間一髪、ソフィーはしりもちをつくのを免れた。




