四章:二十五話:3
手際よい針子たちの手による身繕いが進むなか、扉がノックされた。
針子の一人が離れた。
髪飾りの位置を調整されているエリンは鏡の前から動けない。
鏡面に映る扉を見つめ、エリンは高鳴ってくる胸に手を当てた。
(ダニエル様が約束通り、迎えに来てくれた)
伯爵家から馬車に揺られてダニエルの屋敷に向かうなか、抱いた不安と期待が蘇る。
裏切られた初対面に奮起して、訪れた業者とともに屋敷を整えた。
戻ってきたダニエルに怒られてもめげず、働き続けた。
今日だって色々乗り越えて、ここに立っている。
心臓が割れんばかりに鼓動を打つ。
ダニエルがどんな顔で扉を潜るのか。
どんな表情を見せるのか。
どんな表情で迎えればいいのか。
そわそわする心をかかえていられなくなり、徐々に苦しくなってゆく。
扉を開いた針子がダニエルを恭しく迎え入れた。
挨拶する彼女に労いの言葉をかけ、ダニエルが前を向く。
鏡越しに目が合った。
ダニエルが静止する。
髪から針子の手が離れた。
エリンは鏡に映る姿を上から下に見回した。
丁寧に梳かれ、整えられた髪。
愛らしい色合いの薄化粧。
華やかにレースをあしらったドレス。
働き詰めの手を覆うレースの手袋。
品の良いアクセサリー。
鏡に映る着飾った姿と鏡越しに映るダニエルを交互に見たエリンは、胸に添えた手を握りしめる。
(大丈夫。見劣りしない、しないわ)
解いた拳を下し、ふわりと広がるスカートを摘まむ。ゆっくりと振り向いた。
黙って立つダニエルを見たエリンは、言葉をかけねばと思うのに、お待ちしておりましたと言えばいいのか、儀式は無事にすみましたかと言えばいいのか迷った挙句、なにを言ったらいいのか分からなくなった。
だから、ドレスを身に着け、髪を結われ、化粧を施されるなかで、鏡を見ながら探しあてた一番良い笑顔で、エリンは笑んだ。それしかできなかった。
ダニエルが目を逸らした。
天井を見て、床を見て、再びエリンに視線を戻した。
腰に両方の拳をあて、首をかしげて、エリンにも聞こえるほど大きな息をついた。
どうしたのかとエリンは不安に駆られ、左右に侍る針子たちを見た。
なんか変な所でもあったろうかと視線を送れば、彼女たちは曇りのない笑みをエリンに向ける。
不安が拭われ、エリンは再び前を向く。
ダニエルは上衣を整えていた。
肩幅の広い鍛え抜かれた体躯は立っているだけで様になる。
第一王子の名を冠するに相応しい立ち姿に針子たちからもため息が漏れる。
悠々と歩き出したダニエルの全身から名状しがたい色香が匂い立つ。
整えられた黒髪は誠実さを醸し、濃緑色の瞳からは慈愛が溢れる。
厳かに床を踏みしめるごとに、彼の深い懐に飲み込まれていくかのように空間全体の空気が塗り替えられていく。
目の前に立ったダニエルがエリンに手を差し伸べた。
「約束した通り、迎えに来た」
エリンはダニエルの手を取った。
柔らかく包み込みこんだ指先に、拝するダニエルが唇を落とす。
ささやかな触れ合いは淡雪のように溶けて、エリンの心身に沁みていく。
「よく似合っている」
「嬉しいです」
素直な気持ちが口をすべりおち、エリンは驚く。
「可憐という言葉がよく似合う」
真っ直ぐな賛辞を受けて、恥ずかしさのあまり顔を伏せたエリンがはにかむ。
「ありがとうございます」
「ホールに人が集まってきている。行かなくてはいけない。もう少しゆっくりしていたいところだが」
ダニエルの惜しむ素振りに感化され、切なくなるエリンだが、仄かな気持ちをふりきって、明るい笑顔で顔をあげた。
「行きましょう」
「ゆっくり行こう。これから先は一緒だ。堂々として、微笑んでいればいい。笑顔は鉄壁の盾になる。俺の傍にいさえすれば、大抵のことはなんとでもなる」
頷くエリンの手をダニエルが優しく引く。
着付けてくれた針子たちに見送られ、エリンとダニエルは部屋を出た。
慣れない靴を履くエリンが歩くに困らない速度で廊下を進む。
階段を下る。
ホールに通じる階までは降りきらず、中ほどで離脱した。
進む廊下ですれ違う者は皆、一様に端に寄り、二人が通り過ぎるまで頭を垂れる。
騎士が警備する両開きの扉の前でダニエルは足を止めた。
無言のうちに、二人の騎士が扉を開く。
目隠し用に分厚いカーテンがかけられていた。
合わせ目から光が射す。
隙間に見え隠れするシャンデリアがホールから見上げた時よりずっと大きく見えた。
さざめき合う人の声が、カーテン越しに伝ってくる。重なり合う声は潰れて形を成さず、意味は何一つわからなかった。
この向こうにホールがある。
そう自覚すると、急にエリンはドキドキしてきた。
シャンデリアの大きさからして、中二階に通じているに違いない。間違いなく、階下のホールに集っている貴族たちを見下ろすことになるだろう。
手が震える。
膝が笑う。
手足を一緒に前に出してしまいそうになるほど、強い緊張感に包まれた。
口を真横に結んだエリンは、ぎゅっとダニエルの腕をつかんだ。
「怖いか」
エリンの頭部にダニエルが囁きかける。
「少し……」
「俺の隣で、じっとしていればいい。怖くなったら、遠慮なく俺の腕をつかむといい。崩れ落ちそうになれば体重を預けてきてもかまわない」
そうは言っても、と縋る目を向けるエリンに対しダニエルがおどける。
「しりもちをつくことだけは気をつけろよ。他人の記憶から忘れ去られても、一生忘れられない恥になるからな」
この期に及んでなにを言うのとエリンは目を丸くする。同時にふっと気が抜けた。エリンの口元から笑みがこぼれた。
「しりもちはないでしょう」
「緊張すると思いもよらないありえないことを仕出かしてしまうものだ」
「そういうこともあるかもしれないですね。気をつけます」
エリンは笑いをかみ殺す。
静まりかえり、楽団が演奏する音楽が聞こえてきた。
ダニエルが背筋を伸ばして前を向く。エリンもダニエルに倣った。
音楽が徐々に小さくなる。
横にいた警備の騎士が進み出て、閉じられていたカーテンを開いた。




