四章:二十五話:2
気張るエリンは両目を瞬かせた。
疲れも汚れも落とされて、髪も手も磨かれたエリンが湯船から出れば、後は有能な針子たちの独壇場。水滴を拭い、うっすらオイルを素肌に塗りこめば、全身から甘い香りが薫じてくる。半乾きの髪を髪留めでまとめ上げ、火照る身体が冷めきれば、後はお着せのお人形。
親切丁寧でありながら拒否を許さぬ手際の良さに圧倒され、あれよあれよと仕上げられたエリンが、運ばれてきた姿見の前に立つ。
立場ばかりが気になって屋敷では直視できなかった姿を、気持ち新たにじっと見つめる。
スカートの裾にあしらわれた鮮やかなレースのボリュームが増しており、屋敷では低く感じた袖を絞る橙のリボンの位置も丁度良くなっていた。
(綺麗……)
橙の差し色が鮮やかな白地のドレスに見惚れる。
生きているうちに、こんなドレスを纏う機会にめぐまれるなんて、思ってもみなかった。
ため息が漏れる。
屋敷で身に着けた時より、生地が肌に張り付くようフィットしている。
滑らかなデコルテ、絞られた腰回り、広がるスカート。エリンの体形に合わせて、緻密な調整がなされていた。
「清楚ななかに、快活な色合いが冴え、若々しさが引き立ち、とてもお似合いです」
スカートを整える針子に褒められ、エリンは面映ゆくなる。衣装を見降ろし、スカートを摘まむ。
(屋敷で選んだ時は、身分不相応で、不満ばかりだったのに……)
今もまだ、嬉しいと言うには、現実味がない。ただ、二度目だからか、前回ほど嫌悪感に囚われることなく、落ち着いてドレス姿を受け止められていた。
(ダニエル様が私に選んだドレス……)
着飾るアメリアを横目に育ってきたエリンにとって、ドレスなど縁のないものであった。伯爵が父だと知らない時は羨望の眼差しで見つめ、知ってからは絶対に手に入らないものだと思い知らされた。
憧れと諦めが混濁した得も言われぬ感情はなんとなく今も残っている。
とはいえ、かつてほどの憤りを今は感じない。
下働きとしての日常が永遠に繰り返すだけの伯爵家から去り、まだ二か月も経っていないというのに、まるで何年も前に飛び出したかと感じるほど記憶が遠い。
前を向く。
鏡に映る姿をエリンは直視する。
下働きの娘は映ってはいなかった。
洗われた髪、磨かれた肌。整えられた爪。梳いてもらった髪も艶っぽい。いつもの姿との違いが著しく、そわそわする。使用人用の動きやすい制服が無性に恋しくなった。すぐにでも着替えたいと体じゅうがぞわぞわ訴えてくる。
踏みとどまれとエリンは己を叱咤した。
(ダニエル様が迎えに来られるのよ。準備なさい)
使用人に指示を出す女主人になったつもりで、自己に命ずる。
夜会用の衣装を身に着け、髪を整えたダニエルの横に立つためには、使用人の姿では不釣り合いだ。
頭では十分わかっている。
気持ちがついてこないだけで。
(これから向かうのは夜会よ。ドレスじゃなきゃ見劣りするわ。わかるでしょう、園庭のお茶会よりも、ずっと正統な場なのよ。使用人のままでは、行けないの)
エリンは背筋を伸ばした。
鏡に映る姿を見て、逃げたい、こんな姿は私じゃないと恨み言を宣う臓腑に向けて語り掛ける。
(これから行く場所に仕事着は不釣り合いなのよ)
料理や掃除、洗濯をこなすためには動きやすい仕事着が適している。
そんなときに、ドレスであっては仕事にならない。
両替商の門を見上げて、途方に暮れたのも、使用人の姿で、降りてくる紳士淑女に紛れる勇気がわかなかったからだ。
使用人姿で両替商の扉を潜れば、追い出されても文句は言えない。
これから向かう夜会だって同じだろう。
夜会には夜会の、その場に相応しい恰好がある。
(ダニエル様の隣に立つのよ。前王様とそっくりの男性よ。相応しい恰好が、どんな格好か。わかるでしょう)
鏡に指先を触れさせて、心持ち引き気味に、エリンは鏡に映る己を見定める。
お茶会に参加していたご令嬢にも引けを取らないご令嬢が立っていた。
かつてのエリンなら、こんなお嬢様にお仕えできたらどんなにいいのにと夢想したであろう姿だ。
真顔では花がない。
(どうぞ、笑顔で……)
微笑んでみる。
口角をあげ、目元を緩め。
たおやかに見えるように。
余念なく衣装を整えていく針子たちが、「お似合いです」「お奇麗です」「麗しいです」と賛辞を囀る。
身なりを整えたダニエルは、聖騎士の名に相応しい姿だった。
おどおどしたまま横に立っては、目も当てられない。
(大丈夫。きっと、大丈夫)
未だ心中はざわざわするものの、不安や恐怖、逃げたくなる居心地の悪さを宥めすかし、エリンは微笑む。
ドレスの着付けが終わり、暖炉横に設置された化粧台へ移動する。
ふと暖炉前にある応接セットに目を向けると、長椅子で少女が舟をこいでいた。
頑張って走ってきた上に、役目を終えたことで緊張が解けたからだろう。
針子の一人が、少女に手をかけ、横に寝かした。
ゆっくり休んでと心中で語り掛けつつエリンは化粧台の椅子に腰をかける。
エリンの背後に立つ針子が髪を整え始めた。
念入りに水滴を拭った髪の渇きは早い。
ドレスに着替えるなかで、針子がかわるがわる団扇を仰ぎ、頭皮に風を当てていた効果もあっただろう。
乾きかけの髪に、オイルを吸った木櫛を入れれば、梳くごとに髪の艶がさらに増した。
凛と座すエリンは針子たちにすべてを委ねる。
ドレスに合わせて取りそろえたアクセサリーを順に身に着ける。
素肌に触れると、金属特有のきんと響く冷たさが染みた。
初めて身に着けた時の緊張を思い出す強張る身体を、深呼吸で整え、恐れ多いと嘆く臓腑を笑い飛ばすように、エリンは笑みを深めた。
屋敷での着替え中、高価な品を落として壊してしまったらと総額を計算し、その途方もない金額に意識が途絶えかけた。その末にあげた、心中の悲鳴含め、まるですべてが偽りの記憶であるかのように遠く感じられた。
泣きそうだった過去が懐かしくさえ思える。
髪が結われ、髪飾りをつけた。
化粧を施され、目元も口元も淡く彩られた。
最後に、チークブラシで血色を演出する。
針子たちが一歩引く。口々に「華やかさのなかにも愛らしさがあり、お奇麗です」「どこのお姫様かと見紛うほどにお美しいです」などと囀り、ほめそやす。
「ダニエル様の隣に立っても、見劣りしないかしら」
小さな不安を口にしても、針子たちは口をそろえて「決して見劣り致しません」と判を押す。
再び部屋の中央に戻り、姿見の前に立つ。
女性たちが髪やスカート、レースのうねり、リボンの結び目などを丁寧に整えていく。
真面目腐った顔ではドレスばかりが目立つ。
華やかな衣装を身に着けても貧相に見えてしまう。
宝石よりも勝る笑顔を模索し、エリンは鏡を見つめる。
微笑んで、口角を上げて、角度を変えて、笑顔を試す。
ドレスにもアクセサリーにも負けない。
そんな笑顔を探し当てた。
(せめてダニエル様の隣に立った時には小奇麗な花でありたいの)




