第九話「殿下の求婚」
第九話「殿下の求婚」
クロードはそれから、三日に一度のペースでヴァルロワ公爵邸を訪ねてきた。
最初は応接室で父も同席していたが、三度目からは自然とふたりきりになるようになった。父もエドワードも、何も言わなかった。ただ、気を利かせてくれていた。
話す内容は、他愛もないことが多かった。王宮であった出来事、王都の新しい店の話、昔一緒に読んだ本の話。クロードは政務の話はほとんどしなかった。アメリアも、モンテ侯爵家のことは話さなかった。ふたりの間に、そういう暗黙の了解があった。
ただ話すだけの時間が、アメリアには心地よかった。
誰かのために微笑む必要がない。完璧でいる必要がない。ただ、自分の言葉で話して、自分の顔で笑える。そういう時間が、少しずつアメリアの中の何かを溶かしていった。
十五日目の午後だった。
いつものように応接室でお茶を飲んでいると、クロードがふと口を開いた。
「アメリア、一つ聞いていいか」
「はい」
「離縁の手続きは、進んでいるか」
アメリアは少し驚いた。クロードがモンテ侯爵家のことに触れるのは、初めてだった。
「……父が進めてくれています。先日、ベルナール様がようやく印を押したと聞きました」
「そうか」
クロードは短く答えて、テーブルの上のカップを手に取った。それからしばらく、何かを考えるように黙っていた。
アメリアは待った。クロードが黙るときは、大事なことを言おうとしているときだと、子供の頃から知っていた。
クロードはカップをソーサーに戻して、アメリアを見た。
「正式に手続きが完了したら——俺と、結婚してほしい」
応接室が、静かになった。
アメリアは、しばらくその言葉を飲み込めなかった。わかっていた。花束が届いた日から、クロードの気持ちはわかっていた。でも実際に言葉にされると、胸の中でいくつもの感情が同時に動いて、どれをどう整理すればいいかわからなかった。
「……突然ですね」
「突然じゃない。ずっと前から思っていた」
アメリアは少し目を伏せた。
ずっと前から。ふたりが幼馴染として育った、あの頃から。
「クロード、私は……」
「答えは今じゃなくていい」
クロードが静かに遮った。
「急かすつもりはない。ただ、伝えたかった。それだけだ」
アメリアは顔を上げた。クロードの金色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。焦りも、不安も、そこにはなかった。ただ、静かな確かさがあった。
「……一つだけ、聞いてもいいですか」
「何でも」
「王太子妃には、政治的な条件があると聞いています。私では、条件に合わない可能性があるのでは」
クロードは少し間を置いた。それから、はっきりと答えた。
「五年前はそうだった。隣国との外交上の問題で、ヴァルロワ家は候補から外れていた」
「では——」
「その問題は、二年前に解消されている。今はもう、障害はない」
アメリアは息を呑んだ。
「二年前……」
「ああ。ただ、お前はまだ既婚者だったから。何もできなかった」
クロードの声は静かだったが、その奥に五年間の重さが滲んでいた。アメリアは胸が痛くなった。クロードもまた、ずっと待ち続けていたのだと——改めてわかったから。
「クロード」
「何だ」
「嬉しいです。本当に」
クロードは少し目を瞬かせた。
「でも——もう少しだけ、待ってもらえますか」
「……理由を、聞いてもいいか」
アメリアは少し考えて、正直に言った。
「五年間、ずっと誰かの隣に立つために生きてきました。侯爵夫人として、妻として、完璧な誰かとして。だから今の私には、自分がどういう人間なのか、まだよくわからないんです」
「……」
「クロードの隣に立つなら、仮面をつけたままではいたくない。本当の自分で、隣に立ちたい。だからもう少しだけ、時間をください」
クロードはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「わかった。待つ」
「ありがとうございます」
「ただ——」
クロードが、少し口元を緩めた。
「三日に一度は来る。それは変えない」
アメリアは思わず、声を出して笑った。
声を上げて笑ったのは——いつぶりだろう。五年前より、もっと前かもしれなかった。
「……それは、構いません」
「よし」
クロードは満足そうに頷いた。その横顔が、八歳の頃と少しも変わっていない気がして、アメリアはまた小さく笑った。
窓の外では、春の風が庭の木を揺らしていた。
白薔薇が、今日も咲いていた。
第九話 了




