第七話「侯爵家の誤算」
第七話「侯爵家の誤算」
離縁状が届いてから三日が経った。
ベルナールはまだ、印を押していなかった。
理由を聞かれれば、答えられなかった。ただ、引き出しの中の離縁状を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していた。何かが引っかかっていた。それが何なのか、まだわかっていなかった。
その日の午前、侯爵家の家令が執務室に入ってきた。初老の男で、モンテ侯爵家に三十年仕えている家令のドミニクだった。感情をほとんど表に出さない、この屋敷で最も古株の使用人だ。だが今日は珍しく、少し険しい顔をしていた。
「旦那様、少々よろしいでしょうか」
「何だ」
「先月のエルヴィン侯爵家との晩餐会の件でございます。先方から、日程変更の申し入れがございました」
「変更?理由は」
「……先方のご都合、とだけ」
ベルナールは眉を寄せた。エルヴィン侯爵家とは長年懇意にしている。日程変更の申し入れ自体は珍しくないが、理由を言わないのは初めてだった。
「わかった。日程は調整しろ」
「はい。それともう一件」
「何だ」
「王宮からの春の園遊会の招待状でございますが……今年は届いておりません」
ベルナールの手が止まった。
「届いていない?」
「はい。例年であれば三月の初旬には届くのですが、今年はまだ」
ベルナールは少し考えた。招待状の遅れは、単純な手違いかもしれない。だが王宮の事務は几帳面なことで知られている。手違いで遅れるようなことは、ほとんどなかった。
「……問い合わせろ」
「すでに確認いたしました」
「それで」
ドミニクが、珍しく一瞬だけ間を置いた。
「今年は招待者の選定を見直しているとのことで、改めてご連絡する、と」
沈黙が落ちた。
選定を見直している。その言葉の意味を、ベルナールは頭の中でゆっくりと咀嚼した。
王宮の春の園遊会は、王家が主催する年で最も重要な社交行事のひとつだ。招待されるかどうかは、その家の王家との関係を如実に示す。モンテ侯爵家は過去十年以上、一度も招待を外れたことがなかった。
それが今年、見直されている。
「他に何かあるか」
ベルナールは努めて平静を装いながら聞いた。
「はい。実は……ここ数日で、いくつかの家から予定していた会合の取り消しが届いております」
「いくつかとは」
「現時点で、五件でございます」
五件。ベルナールは机の上で手を組んだ。
一件や二件なら偶然かもしれない。だが五件が同時期に重なるのは、偶然ではない。何かが、動いている。
「……アメリアが屋敷を出たのは、三日前だ」
ベルナールは独り言のように呟いた。ドミニクは何も言わなかった。
そうか、とベルナールはようやく理解し始めた。
アメリアが支えていたのは、屋敷の家事や社交の段取りだけではなかった。ヴァルロワ公爵家の長女として、アメリアはモンテ侯爵家に膨大な人脈と信頼をもたらしていた。エルヴィン侯爵家との関係も、王宮との繋がりも、多くの貴族家との縁も——その多くが、アメリアを通じて成り立っていたのだ。
置物、などと思っていた。
台座に飾られた、格だけの飾りだと。
だがその置物が支えていたものの重さに、ベルナールは三日経ってようやく、気づき始めていた。
「ドミニク」
「はい」
「奥方は……今、ヴァルロワ公爵邸にいるのか」
「そのように伺っております」
ベルナールはしばらく黙った。それから、引き出しを開けた。離縁状が、折り畳まれたままそこにあった。
まだ、印を押していない。
「下がっていい」
「はい。失礼いたします」
ドミニクが出ていった。執務室に一人残されたベルナールは、離縁状をしばらく見つめた。
取り消せるだろうか。アメリアに謝れば、戻ってきてもらえるだろうか。
いや——そもそも、自分は何を謝ればいいのかすら、まだわかっていなかった。
五年間、何が間違っていたのか。アメリアが何を求めていたのか。なぜあの夜会の翌朝に、こんなことになったのか。
何もわかっていなかった。
ただひとつだけ、わかったことがあった。
モンテ侯爵家にとって、アメリア=ヴァルロワは——決して、置物ではなかった。
第七話 了




