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第五話「ベルナールの動揺」

第五話「ベルナールの動揺」


 その朝、ベルナール=モンテが執務室に入ったのは、いつもより二時間早かった。



 昨夜の夜会の疲れが残っていたはずなのに、なぜか目が覚めてしまった。理由はわからなかった。ただ、何か引っかかるものがあって、それが何なのか確かめたくて、気づけば着替えて廊下に出ていた。



 執務室の扉を開けた瞬間、机の上の封書が目に入った。



 見慣れない封書だった。いや——見慣れない、というより、こんな場所に置かれているはずのないものだった。アメリアの筆跡で、宛名も差出人もなく、ただ白い封書が机の中央に置かれていた。



 ベルナールはしばらく、それを手に取れなかった。



 嫌な予感がした。



 根拠はなかった。ただ、胸の奥で何かが軋む音がした。それでも手を伸ばして、封書を開いた。



 中には、一枚の紙。



 離縁状だった。



 アメリアの署名と、ヴァルロワ公爵家の印が、すでに押してあった。



 ベルナールはその紙を持ったまま、しばらく動けなかった。頭の中が、妙に静かだった。驚いているのか、怒っているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、紙に押された印をぼんやりと見つめていた。



 ヴァルロワ公爵家の印。



 それがついているということは、父親も承知の上だということだ。アメリアが一人で暴走したわけではない。公爵家を巻き込んで、正式に、離縁を求めている。



 ベルナールは椅子に腰を下ろした。



 すぐに戻ってくるだろう、と最初は思った。アメリアはいつも冷静な女だ。一晩頭を冷やせば、これがどれほど非現実的な選択かわかるはずだ。侯爵夫人の地位を捨てて、どこへ行くというのか。



 そう思っていた。



 だが昼になっても、アメリアは戻らなかった。



 侍女頭のエレナを呼んで話を聞くと、アメリアは夜明け前に荷物をまとめて出ていったという。馬車も自分で手配していたという。エレナは目を赤くしていた。



「奥様は……夜明け前からご準備されていました」



「夜明け前から?」



「はい。私が気づいたときには、もうほとんど支度が終わっておいででした」



 ベルナールは眉を寄せた。



「昨夜の夜会から戻ってすぐ、ということか」



「……おそらくは、そうかと存じます」



 エレナはそれ以上何も言わなかった。言わなかったが、その目が雄弁だった。当然です、と——そう言っているような目だった。



 ベルナールはエレナを下がらせて、一人になった。



 窓の外を見る。よく手入れされた庭が見えた。春の薔薇が咲き始めていた。



 そういえば、あの庭はアメリアが管理していた。季節ごとに花を変えて、職人に細かく指示を出して、美しく保っていた。ベルナールは一度も、綺麗だと言ったことがなかった。言う必要を感じなかった。あって当然のものだと思っていたから。



 夕方、イザベルが屋敷を訪ねてきた。



 昨夜の夜会の礼を言いに来たのだと、はにかんだ笑顔で言った。いつもなら、その笑顔を見るだけで気持ちが和らいだ。だが今日は、なぜかそんな気分になれなかった。



「ベルナール様、どうかされましたか。お顔の色が優れないようで」



「……何でもない」



「奥様はご在宅でないのですか?今日はご挨拶しようと思っていたのですけれど」



 ベルナールは少し間を置いた。



「アメリアは、実家に戻った」



「まあ」



 イザベルが目を丸くした。それから、ぱっと顔を輝かせた。



「それでは——離縁が成立したということですか?」



 ベルナールは答えなかった。



 イザベルの弾んだ声が、妙に耳に障った。なぜだかわからなかった。自分がイザベルを選んだのだから、これは望んでいた展開のはずだった。アメリアがいなくなれば、イザベルと堂々と一緒にいられる。それを望んでいたはずだった。



 なのに。



「まだ成立はしていない」



 ベルナールは短く答えた。



「でも時間の問題ですわよね。ふふ、では私——」



「今日は帰ってくれ」



 イザベルが口を閉じた。傷ついたような顔をしたが、ベルナールはそれ以上何も言えなかった。



 イザベルが帰った後、ベルナールはまた一人で執務室に座った。



 机の上には、まだ離縁状が置いてあった。自分の印を、まだ押していなかった。



 押せばいい。それだけのことだ。アメリアが望んでいる。自分も、そうなれば都合がいい。なのに——なぜか、手が動かなかった。



 夜会で、アメリアはずっと微笑んでいた。



 イザベルを紹介したとき、一瞬だけ間があった。あの一瞬に、何があったのか。あのとき、アメリアは何を思っていたのか。



 五年間、一度も考えたことがなかった。



 アメリアが何を思っているか、など。



 ベルナールは離縁状を引き出しの中にしまった。今日は、押せなかった。



 理由は、自分でもわからなかった。



第五話 了

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