第四話「花束の差出人」
第四話「花束の差出人」
午後になって、ようやくアメリアは父の書斎へ向かった。
扉をノックすると、「入りなさい」という低い声が返ってきた。書斎に入ると、父・ヴァルロワ公爵が机の前に座っていた。向かいの椅子にはエドワードもいた。ふたりとも、難しい顔をしていた。
「座りなさい」
父が言った。アメリアは素直に椅子に腰を下ろした。
しばらく、誰も口を開かなかった。父は机の上で手を組み、エドワードは腕を組んで窓の外を見ていた。重い沈黙だったが、アメリアは急かさなかった。父がこういう顔をするときは、言葉を選んでいるときだと知っていたから。
「離縁状は、モンテ侯爵が今朝受け取ったそうだ」
父が口を開いた。
「存じております」
「使者が来た。侯爵は……困惑しているようだった」
困惑。アメリアは内心で小さく息を吐いた。怒りでも悲しみでもなく、困惑。それがベルナールらしかった。妻がいなくなって、感情より先に状況把握が来る人だった。
「お父様、離縁の手続きを進めてください。私の意思は変わりません」
「わかっている」
父はそう言って、一度目を閉じた。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「お前が辛い思いをしていたのに、気づいてやれなかった。すまなかった、アメリア」
アメリアは少し驚いた。父が謝るのは、珍しいことだった。
「いいえ。私が言わなかっただけです」
「言えない環境を作ったのは親の責任だ」
父の声は静かだったが、その奥に深い後悔が滲んでいた。アメリアは何も言えなくて、ただ小さく首を振った。
「——それで」
エドワードが口を開いた。窓の外から視線を戻して、アメリアを真っ直ぐに見る。
「クロード殿下からの花束は、どうするつもりだ」
アメリアは少し間を置いた。
「……まだ、わかりません」
「会うつもりはあるか」
「お兄様」
「聞いているんだ」
エドワードの声は強引ではなかった。ただ、真剣だった。アメリアは視線を膝の上に落として、ゆっくりと考えた。
会いたいか、と問われれば——正直なところ、わからなかった。
クロードのことは、嫌いではない。幼い頃から知っている、信頼できる人だ。五年ぶりに届いた手紙が、どれほど胸に沁みたかも知っている。
でも今の自分は、誰かに寄りかかれる状態ではなかった。五年間演じ続けた侯爵夫人の仮面を脱いだばかりで、その下にある本当の自分が、まだよく見えていない。そんな状態で、王太子殿下と向き合えるとは思えなかった。
「会うことは……できると思います。でも今すぐは」
「そうか」
エドワードはそれだけ言って、また黙った。父も何も言わなかった。ふたりとも、アメリアの答えを急かさなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
アメリアは顔を上げた。父を見る。
「クロード殿下が、私が実家に戻ったことをなぜご存知だったのでしょう。花束が届いたのは翌朝でした。あまりに早すぎて」
父とエドワードが、一瞬だけ視線を交わした。
「……それは」
父が口を開きかけて、止まった。代わりにエドワードが、少し言いにくそうに続けた。
「殿下は、ずっとお前のことを気にかけておられた。モンテ侯爵家の様子を、定期的に確認されていたらしい」
「定期的に……」
「俺も最近知ったんだが。殿下の側近から、父上に話があったそうだ。お前が屋敷を出たその日のうちに、知らせが届いていたと」
アメリアはしばらく、それを飲み込めなかった。
五年間。クロードは一度も会いに来なかった。手紙も寄越さなかった。てっきり、お互いに割り切って、それぞれの道を歩んでいるのだと思っていた。
それなのに。
ずっと、見ていたのか。
「……知りませんでした」
アメリアの声が、わずかに揺れた。
「殿下なりの、けじめだったんだろう」
エドワードが静かに言った。
「既婚者に手を出すことも、お前の結婚に口を挟むことも、王太子という立場上できなかった。だから距離を置きながら、見守っていた。——そういうことだと思う」
アメリアは窓の外に目を向けた。
夕暮れが近づいていた。空が、少しずつ橙色に染まっていく。
五年間。自分が見えない場所で、クロードも何かを抱えていたのだろうか。会いに来られないまま、ただ遠くから気にかけていたのだろうか。
待っていました、アメリア。
あの一行の意味が、少しだけ変わって見えた気がした。
「返事は、自分で考えます」
アメリアは父に向かって、静かに言った。
「急がなくていい」
「はい」
「ただ——」
父が珍しく、言葉を詰まらせた。それからゆっくりと続けた。
「今度は、自分のために選びなさい。家のためでも、誰かのためでもなく」
アメリアは、しばらくその言葉を胸の中で転がした。
自分のために。
五年間、考えたことのなかった言葉だった。
「……はい、お父様」
今度こそ、ちゃんと笑えた気がした。
第四話 了




