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第三話「五年間の独白」

第三話「五年間の独白」


 朝食の時間になっても、アメリアは自室から出なかった。



 食欲がないわけではなかった。ただ、まだ人と話せる気がしなかった。父も兄も、きっと今朝は色々と聞いてくるだろう。それに答えるだけの言葉を、まだ自分の中で整えられていなかった。



 窓辺の椅子に腰を下ろして、届いたばかりの白薔薇を眺める。花瓶に活けたそれは、朝の光の中で静かに輝いていた。



 待っていました、アメリア。



 クロードの言葉が、頭の中で繰り返される。五年ぶりに名前を呼ばれた感覚が、まだ胸の奥に残っていた。



 五年間。



 アメリアは目を閉じて、記憶の糸を手繰り寄せた。



 ベルナール=モンテと婚約したのは、アメリアが十八歳の春だった。



 父から話を聞いたとき、アメリアは驚かなかった。公爵令嬢として生まれた以上、政略結婚は織り込み済みだった。ただ、モンテ侯爵家は古い家柄で、ベルナール自身も社交界で評判の高い青年だと聞いていた。悪い話ではない、とそう思っていた。



 問題は、婚約発表の三日前だった。



 クロードが、珍しく一人でヴァルロワ邸を訪ねてきた。王太子が供も連れずに訪問するなど異例のことで、父は慌てたが、クロードはアメリアと二人で話したいと言った。



 庭に出た。子供の頃から何度も遊んだ、薔薇の咲く庭に。



「婚約の話、本当か」



 クロードは単刀直入に聞いた。いつもそういう人だった。遠回しな言い方をしない、真っ直ぐな人。



「本当です」



「……そうか」



 それきり、クロードは黙った。庭の薔薇を見ているようで、でも何も見ていないような目をしていた。アメリアは何かを言いかけて、やめた。



 言えるはずがなかった。



 クロードが王太子である限り、アメリアは彼の隣には立てない。王太子妃には政治的な条件がある。ヴァルロワ公爵家は格としては申し分ないが、隣国との関係上、別の家からという話が宮廷内では既に進んでいると聞いていた。



 だからアメリアは黙った。クロードも黙った。



 ふたりの間に、言えなかった言葉だけが積もった。



「幸せになれよ」



 クロードが最後にそう言った。声が、わずかに掠れていた。



「はい」



 アメリアはそう答えた。笑えたかどうか、今となっては覚えていない。



 結婚式は、翌年の春だった。



 ベルナールは式の間、アメリアを見ていた。少なくとも、そのときは。誓いの言葉を交わすとき、初めてアメリアと目が合って、ベルナールは微かに微笑んだ。その笑顔が悪くなかったから、アメリアは少しだけ期待した。



 この人と、うまくやっていけるかもしれない、と。



 その期待が、静かに削られていったのはいつからだろう。



 最初の一年は、まだよかった。ベルナールは忙しかったが、たまに食事を共にした。たまに夜会で隣に立った。たまに、アメリアの話を聞いた。



 二年目から、その「たまに」が減り始めた。



 食事は別々になった。夜会ではいつの間にか離れていた。話しかけると、仕事の話だけが返ってきた。アメリアはそれでも屋敷を切り盛りし、社交をこなし、モンテ侯爵夫人として完璧であろうとした。



 三年目、アメリアは初めて泣いた。



 夫の誕生日に、三ヶ月かけて準備したプレゼントを渡したとき、ベルナールは「ありがとう」とだけ言って、それをそのまま執務室の棚に置いた。翌日見たら、棚の一番奥に押しやられていた。



 その夜、アメリアは自室で声を殺して泣いた。



 四年目、もう泣かないと決めた。



 泣いても何も変わらないと、ようやくわかったから。それよりも、完璧な侯爵夫人でいる方が、まだ自分を保てた。役割があれば、立っていられた。



 五年目、イザベルが現れた。



 ベルナールの目が初めて輝くのを見た。それがアメリアに向けられたものでないことは、一目でわかった。羨ましいとも思った。悔しいとも思った。でも一番強く思ったのは——ああ、終わりだ、ということだった。



 終わりにしよう、と。



 アメリアは目を開けた。



 白薔薇が、窓からの風にそっと揺れた。



 五年間を振り返っても、後悔はなかった。できることは全部した。笑えないときも笑った。悲しいときも前を向いた。それでもダメだったなら、それはもう、自分のせいではない。



 そう思えるようになったのは、いつからだろう。



 ——きっと、ずっと前からわかっていたのだ。ただ認めたくなかっただけで。



 扉がノックされた。



「アメリア、入っていいか」



 兄の声だった。



「どうぞ」



 エドワードが入ってきた。手に朝食のトレイを持っていた。侍女に持たせればいいものを、自分で運んできたらしい。不器用な兄らしかった。



「食べてないだろうと思って」



「……ありがとうございます、お兄様」



 エドワードはトレイをテーブルに置いて、それからアメリアの向かいの椅子に腰を下ろした。何か言いたそうな顔をしていたが、しばらく黙っていた。



「辛かったか」



 唐突に、兄が言った。



 アメリアは少し考えて、それから正直に答えた。



「辛かったです。でも——終わりにできてよかった」



「そうか」



 エドワードはそれだけ言って、立ち上がった。扉に向かいかけて、振り返る。



「あの男には、俺から話をつける。お前は何も心配しなくていい」



「お兄様」



「なんだ」



「怒鳴り込んだりしないでくださいね」



 エドワードは一瞬だけ黙って、それから小さく舌打ちをした。



「……善処する」



 扉が閉まった。



 アメリアはその背中を見送って、小さく笑った。



 本物の笑みが、自然に出たのは——五年ぶりのことだった。



第三話 了

次話「花束の差出人」へ続く


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