第二話「置物の退場」
第二話「置物の退場」
夜が明けるより早く、アメリアは目を覚ました。
眠れなかったわけではない。ただ、やるべきことが頭の中で静かに整列していて、それを済ませてしまいたかった。
身支度は自分でした。侍女を呼ばなかった。いつもより簡素な、それでも品のある薄青のドレスを選んで、髪を緩くまとめる。鏡の中の自分を見て、アメリアは小さく息を吐いた。
昨夜の完璧な侯爵夫人は、もうどこにもいなかった。
いや——もともと、いなかったのかもしれない。
引き出しの奥から、一通の封書を取り出す。実は三週間前から、少しずつ準備していたものだった。マリアンヌから「ベルナール様が夜会にイザベル嬢を連れてくるつもりらしい」と、アメリアだけにこっそり耳打ちされたあの日から。
マリアンヌは何も言わなかった。ただ目だけで「知っておいて」と伝えてきた。アメリアも何も言わなかった。ただ「ありがとう」と微笑んで、その夜から静かに準備を始めた。
封書の中には、離縁状。
アメリア=モンテの署名と、実家ヴァルロワ公爵家の印がすでに押してあった。
あとは夫が押すだけでよかった。もっとも、押さなくても構わなかった。父に一言伝えれば、それで済む話だったから。
アメリアは封書を手に、夫の執務室へ向かった。
廊下は静かだった。使用人たちはまだ動き始めていない。自分の足音だけが、石畳の床に吸い込まれていく。五年間、何百回と歩いたこの廊下を、今朝が最後に歩いていると思うと——不思議なほど、胸は凪いでいた。
執務室の扉をそっと開ける。
誰もいなかった。当然だった。ベルナールが執務室に来るのは昼近くになってからだ。五年間でそれだけは、よく知っていた。
アメリアは迷わず、夫の机の中央に封書を置いた。
それから一度だけ、執務室を見回した。
立派な造りの机。壁一面の書棚。窓から見える手入れの行き届いた庭。五年間、アメリアが采配してきた庭だった。春になれば薔薇が咲き、夏には噴水が涼しげに水を上げ、秋には紅葉が美しく色づく。ベルナールは一度も、綺麗だと言わなかったけれど。
もういい。
アメリアは執務室を出た。扉を閉める音が、やけに大きく聞こえた。
荷物はほとんど持たなかった。侍女頭のエレナが青い顔で「奥様、せめてもう少し——」と縋るように言ったけれど、アメリアは首を振った。
「エレナ、五年間ありがとう。あなたは本当によく働いてくれました」
「奥様……っ」
「泣かないで。あなたが泣いたら、私まで泣いてしまうから」
エレナは唇を噛んで、それでも目に涙を溜めたまま、深く頭を下げた。
アメリアはその頭を一度だけそっと撫でて、玄関へ向かった。
馬車は、アメリアが昨夜のうちに手配しておいたものだった。モンテ侯爵家の紋章のない、質素な辻馬車。それに乗り込んで、御者に行き先を告げる。
「ヴァルロワ公爵邸へ」
馬車が動き出した瞬間、アメリアは一度だけ振り返った。
石造りの立派な屋敷。朝靄の中に佇む、モンテ侯爵邸。五年間、自分が守り続けた場所。
泣かなかった。
泣けなかったのではなく、もう泣き終わっていたのだと思った。昨夜、月明かりの中でひとり座っていたとき、最後の涙は落ちてしまっていた。
馬車が走り出す。門が遠ざかる。屋敷が朝靄の向こうに消えていく。
アメリアは前を向いた。
ヴァルロワ公爵邸に着いたのは、朝の鐘が二度鳴った頃だった。
門番が驚いた顔をしたのも束の間、屋敷の中はすぐに騒然となった。知らせを聞いた父・ヴァルロワ公爵が書斎から飛んできて、兄・エドワードが寝間着のまま階段を駆け下りてきた。
「アメリア!いったい何が——」
「おかえり、アメリア」
父の言葉より先に、兄が言った。
たったそれだけで、アメリアは危うく崩れそうになった。おかえり、という言葉が、こんなにも温かいものだとは思わなかった。
「……ただいま戻りました、お兄様」
声が、わずかに揺れた。
「よく戻った」
エドワードはそれだけ言って、アメリアの肩に手を置いた。それ以上は何も聞かなかった。その不器用な優しさが、じんわりと胸に沁みた。
父は難しい顔をしていたが、やがて深く息を吐いた。
「……話は後で聞こう。まず休みなさい」
「はい、お父様」
案内された部屋は、アメリアが子供の頃から使っていた自室だった。何も変わっていなかった。窓から見える庭の木も、壁にかかった小さな絵も、クローゼットの古い取っ手も。
アメリアはベッドに腰を下ろして、しばらく動けなかった。
ここにいていいのだ、と——それだけを、何度も確かめるように思った。
翌朝、目を覚ますと、部屋に花束が届いていた。
白薔薇。まだ朝露の残る、美しい白薔薇。侍女が「朝一番に届きました」と言いながら、少し不思議そうな顔をしていた。
花束に添えられた小さな封書を開く。中には見慣れた筆跡で、たった一行だけ書かれていた。
「待っていました、アメリア。——クロード」
アメリアは、しばらくその一行を見つめていた。
クロード=エルヴィン。王太子殿下。幼い頃から知っている、幼馴染。ベルナールに嫁いでからの五年間、ただの一度も会いに来なかった人。
なぜ知っているのだろう。自分が実家に戻ったことを。
その答えは、きっとクロード自身の口から聞くことになる——そんな予感がした。
待っていた、と——彼は書いた。
アメリアは白薔薇をそっと胸に抱いた。五年ぶりに、誰かに名前を呼ばれた気がして、目の奥がじんと熱くなった。
泣かない、と思っていたのに。
一粒だけ、涙が落ちた。
第二話 了




