第一話「夜会の屈辱」
第一話「夜会の屈辱」
王都で最も華やかな夜会のひとつ、エルヴィン侯爵家の春の夜会。
毎年この季節になると、王都の貴族たちは競うようにエルヴィン家の招待状を心待ちにする。煌びやかなシャンデリアの光、色とりどりのドレス、甘い香りの漂う大広間。社交界の華と呼ばれるこの場所に、アメリア=モンテは五年間、一度も欠かさず立ち続けてきた。
淡い金色のドレス。きっちりと結い上げた髪。口元には、五年かけて完成させた微笑み。
完璧だった。何もかもが、完璧だった。
ただひとつ——夫の隣に、見知らぬ女がいることを除けば。
イザベル=クレア。
男爵令嬢。二十一歳。栗色の巻き毛と、人懐っこい笑顔が愛らしい娘。社交界に現れたのは半年前。それからベルナール=モンテの視線は、ずっとあの娘に注がれていた。
アメリアはそれを知っていた。
知っていて、耐えて、飲み込んで、今夜まで黙っていた。嫉妬も、悲しみも、訴えたい言葉も、全部、完璧な侯爵夫人の微笑みの奥に押し込んできた。
だが今夜は違った。
夫は愛人を——正式な夜会の場に、堂々と連れてきた。
「アメリア様、あの方は……」
隣に寄り添った親友のマリアンヌ=ドレイクが、扇で口元を隠しながら囁いた。その声には珍しく、怒りが滲んでいた。普段は社交界一の情報通として飄々としているマリアンヌが、珍しく言葉を詰まらせている。
「存じております」
アメリアは微笑んだまま答えた。
「……よろしいのですか」
「何が、ですか」
マリアンヌはそれ以上何も言えなかった。アメリアの微笑みが完璧すぎて、言葉が見つからなかったのだ。
アメリアは視線だけをベルナールに向けた。
夫は楽しそうだった。イザベルの話に笑い、イザベルのグラスが空になる前に新しいものを用意し、イザベルの肩に手を添えて他の貴族たちに紹介している。
五年間。夫がアメリアにそうしてくれたことは、一度もなかった。
アメリアはグラスを口元に運んだ。シャンパンの泡が、喉の奥へ消えていく。
泣かない。ここでは泣かない。
それだけを、胸の中で繰り返した。
ベルナールがイザベルを連れてアメリアの前に立ったのは、夜会が始まって一時間後のことだった。
「アメリア。クレア男爵令嬢だ。挨拶をしておけ」
それだけだった。
説明も、謝罪も、気まずさすらなかった。まるで仕事の指示を出すように、夫はただそれだけを言った。
周囲の視線が集まるのを、アメリアは肌で感じた。広間がわずかに静まり返る。誰もが固唾を呑んで、モンテ侯爵夫人がどう反応するかを見ていた。
アメリアは一拍だけ間を置いて、イザベルに向かって微笑んだ。五年かけて磨き上げた、完璧な侯爵夫人の微笑みを。
「クレア様、はじめまして。モンテ侯爵夫人のアメリアでございます。今宵はよくいらしてくださいました」
「まあ、アメリア様!お噂はかねがね伺っておりました。とても素敵なドレスですわ。その色、アメリア様によく似合っていらっしゃいます」
イザベルの声は明るく、屈託がなかった。悪意があるのか、ないのか、アメリアには判断がつかなかった。
——いや、どちらでもよかった。
「ありがとうございます。クレア様のドレスも、大変お美しい」
アメリアはそう言って、グラスをまた口元に運んだ。手が、震えていないことだけ確認しながら。
その後も夜会は続いた。アメリアは笑い、挨拶し、社交をこなした。誰かがベルナールとイザベルのことを探るような目を向けてきても、アメリアはただ微笑んだ。
完璧な侯爵夫人として。五年間、そうしてきたように。
帰りの馬車の中は、静かだった。
向かい合って座るふたりの間に、言葉はない。窓の外を流れる夜の王都を眺めながら、アメリアはずっと考えていた。いつからだろう、と。いつからベルナールの目は、こんなにも自分を映さなくなったのだろう、と。
結婚した当初は、こうではなかった。
少なくとも、アメリアはそう思っていた。それとも最初から、自分は見えていなかったのだろうか。公爵令嬢という家格だけが必要で、アメリア=ヴァルロワという人間は、最初から必要とされていなかったのだろうか。
「今夜は問題なかったな」
夫が口を開いたのは、屋敷が見えてきた頃だった。
問題。
アメリアは窓の外を見たまま、静かに答えた。
「ええ」
それきり、ふたりの間に言葉はなかった。屋敷に戻り、それぞれの寝室へ向かい、廊下の角で夫の背中が見えなくなった。
アメリアは自室の扉を閉めた。
灯りもつけないまま、椅子に腰を下ろす。窓から差し込む月明かりだけが、部屋をうっすらと照らしていた。
五年間。ベルナールにアメリアと名前を呼ばれたのは、いつが最後だっただろう。結婚式の誓いの言葉の中で、一度だけ聞いた気がする。それ以来ずっと、「アメリア」という名前はこの屋敷のどこにも存在しなかった。
奥方。あなた。モンテ侯爵夫人。
それが五年間の自分だった。名前のない、役割だけの自分。
アメリアは目を閉じた。
もう、いい。
十分すぎるほど、やった。笑った。耐えた。完璧でいた。それでも振り向いてもらえないなら、もうここにいる理由はない。
翌朝、決めよう。
アメリアは月明かりの中で、静かにそう思った。
第一話 了




