第2部・4話「ベルナールの最後」
第2部・4話「ベルナールの最後」
ベルナール=モンテは、かつて侯爵だった。
かつて、という言葉が必要になったのは、いつからだろう。気づいた時には、そうなっていた。
王都の外れに、小さな事務所を借りている。
侯爵家の屋敷は数ヶ月前に手放した。維持費が払えなくなったからだ。使用人のほとんどは去った。ドミニクだけが最後まで残ったが、彼も程なくして暇を出した。三十年勤続の家令に、もう払える給金がなかった。
ドミニクは去り際に一度だけ振り返った。
何も言わなかった。
その沈黙の方が、どんな言葉よりも重かった。
その日、ベルナールは取引先への書類を届けるために王都の中心部を歩いていた。
馬車を使う余裕はなかった。
大通りを歩いていると、向こうから人が来た。正確には、王家の行列が来た。警備の騎士が道を開け、市民が脇に退いた。ベルナールも端に寄った。
馬車が通り過ぎた。
窓から、一瞬だけ、人影が見えた。
淡い金髪。
ベルナールは息を止めた。
見間違いかもしれなかった。
でも違った。
馬車が完全に通り過ぎてから、ベルナールはしばらく動けなかった。周りの市民が歓声を上げていた。王太子妃殿下、と誰かが言った。
王太子妃。
アメリア=ヴァルロワが、今はそう呼ばれている。
五年間、ベルナールはアメリアを「夫人」と呼んだ。
名前を呼んだことは、なかった。
なぜかと問われれば、答えられなかった。必要がないと思っていた。妻はそこにいて、屋敷を管理して、社交界で完璧に振る舞った。それで十分だと思っていた。
離縁状を置いて出て行った朝のことを、今でも覚えている。アメリアは何も言わなかった。泣きもしなかった。ただ静かに、荷物をまとめて、去った。
その時、ベルナールは「すぐ戻る」と思っていた。
どこへ行くにしても、最終的には戻ると。選択肢がないと。
思い上がりだった。
イザベルとの生活は、程なくして破綻した。
侯爵夫人の肩書きを手に入れたイザベルは、その肩書きを使う場所がなくなると、何も残らなかった。社交界はアメリアの去った後を埋めなかった。むしろ冷えた。
王家の冷遇が始まると、他の家々も距離を置いた。
イザベルは実家に戻った。責める気にもなれなかった。そもそも、悪いのはイザベルではなかった。
悪いのは、ベルナールだった。
それに気づくのに、ずいぶん時間がかかった。
あの日、アメリアに謝罪した時、アメリアは静かに聞いていた。
怒りもなく、憐れみもなく、ただ静かに。
「わかりました」とアメリアは言った。「でも、それだけです」
許す、とは言わなかった。
それが正しかった、とベルナールは今では思う。許されてしまったら、もっと辛かったかもしれない。
大通りの喧騒が、遠くなっていた。
王家の行列はとうに通り過ぎていた。市民たちが日常に戻っていく。ベルナールだけが、まだそこに立っていた。
淡い金髪を、思い出していた。
五年間、屋敷にいたはずなのに、どこか遠くにいるような女だった。名前も呼ばなかった。何を考えているか、聞かなかった。好きな花も、好きな色も、知らなかった。
知ろうとしなかった。
向こうの通りで、子どもが転んだ。母親が駆け寄って、名前を呼んだ。子どもが泣き止んだ。
名前を呼ぶだけで、人はあんなに安心するのか。
ベルナールは書類を持ち直して、歩き始めた。
振り返らなかった。
振り返っても、もう何もない。
それだけのことが、ひどく重かった。
その夜、王宮では夕食の席でクロードがアメリアの名前を呼んだ。
アメリアが顔を上げた。
クロードが何か言って、アメリアが笑った。
ベルナールはそれを知らない。
知る必要も、もうなかった。




