第2部・5話「白薔薇の庭で」
第2部・5話「白薔薇の庭で」
王宮の庭園は、夕暮れが一番美しかった。
昼間は白く見える薔薇が、夕陽の色を受けて淡く金色になる。アメリアはその時間が、いつの間にか好きになっていた。
モンテ侯爵家の庭は、アメリアが去った後から荒れ始めたと聞いた。誰も手入れをしなかったらしい。
ここの薔薇は、毎日誰かが世話をしていた。
それだけのことが、なぜか胸に沁みた。
ベンチに座って本を開いていたら、足音が聞こえた。
振り返らなくてもわかった。
「アメリア」
「執務は終わったのですか」
「終わった」
クロードが隣に座った。いつもの場所に、いつものように。アメリアは本に視線を戻した。
「何を読んでいる」
「植物誌です」
「薔薇の?」
「庭師に薦められました。せっかくなので」
クロードが少し目を細めた。
「庭師と話したのか」
「庭園を歩いていたら声をかけられました。この薔薇は手入れが難しいと教えてくれました」
「そうか」
「クロードが好きだから、特に丁寧に育てているとも言っていました」
クロードが黙った。
アメリアは本のページをめくった。
「……知っていたのですか」
「知らなかった」
「庭師は当然ご存じだと思っていたようでしたよ」
クロードはしばらく黙っていた。アメリアは横目で見た。耳が少し赤かった。
珍しいと思った。そしてそれが、思いのほか、かわいかった。
かわいい、などという言葉をクロードに使う日が来るとは思っていなかった。
アメリアは本に視線を戻して、静かに続きを読んだ。
しばらく、ふたりとも黙っていた。
悪くない沈黙だった。モンテ侯爵家の沈黙とは、まるで違った。あの頃の沈黙は冷たかった。空白だった。
今の沈黙は、温かかった。
何かが満ちていた。
「アメリア」
「はい」
「わがままを言っていいか」
アメリアは顔を上げた。クロードが真剣な顔をしていた。不器用なほど、真剣な顔を。
「……わがままですか」
「そうだ」
「クロードがわがままを言うのは珍しいですね」
「言いにくかった」
「今日は言えるのですか」
「言う」
アメリアは本を閉じた。向き直って、クロードを見た。
「どうぞ」
クロードは少し間を置いた。
「もっと、頼ってくれ」
アメリアは瞬きをした。
「……頼っていないわけでは」
「頼っていない」
「そんなことは」
「困った時、アメリアは一人で解決しようとする」
アメリアは口を閉じた。
否定できなかった。五年間、何もかも一人でやってきた。困っても言えなかった。言える人がいなかった。その癖が、まだどこかに残っていた。
「アメリアが一人で抱えようとすることは、見ていればわかる」とクロードは続けた。「左の眉で」
アメリアはまた左の眉を押さえた。クロードが口元を緩めた。
「言えばよかった」
「言うほどのことではないと思って」
「アメリアが迷っていることは、全部言うほどのことだ」
真剣な声だった。飾りのない、不器用な声だった。
アメリアの胸の奥が、静かに揺れた。
「……わかりました」
「本当か」
「本当です。ただ」
「ただ?」
アメリアは少し間を置いた。
「練習が必要です」
「頼ることの?」
「はい。急には慣れないので」
クロードが笑った。声に出して笑った。
「名前の時と同じだな」
「同じです」
「じゃあ今、何か頼んでみろ」
アメリアは少し考えた。
本当は、ずっと思っていたことがあった。言いにくくて、言えなかったこと。わがままだと思って、飲み込んでいたこと。
「……クロード」
「ん」
「この庭園の薔薇を、一輪だけ、部屋に飾っていいですか」
クロードが一瞬、きょとんとした。
「それだけか」
「それだけです」
「今すぐ切ってくる」
「庭師に頼んでください」
「庭師は明日でいい、今すぐ切ってくる」
「クロード」
「ん」
「庭師が丹精込めて育てているのですよ」
クロードは立ち上がりかけて、止まった。
「……庭師に頼む」
「ありがとうございます」
アメリアは笑った。クロードも笑った。
夕暮れの庭園に、ふたりの笑い声が重なった。
少しして、クロードが言った。
「他には」
「他に?」
「頼みたいことが、それだけのはずがない」
アメリアは少し黙った。
そうかもしれなかった。飲み込んできたものが、五年分ある。
「……では」
「ん」
「毎朝、名前を呼んでください」
クロードが静かになった。
「今でも呼んでいる」
「もっと」
クロードと同じ言葉だった。
クロードが目を細めた。
「……言い方を覚えたな」
「練習しました」
「いつの間に」
「頼ることを、毎晩、少しずつ」
クロードはしばらくアメリアを見ていた。それから、静かに笑った。先ほどとは違う、柔らかい笑い方で。
「わかった」
「約束ですよ」
「ああ」
白薔薇が、夕陽の中で金色に揺れた。
アメリアは薔薇を見た。それからクロードを見た。
置物だった女が、今日、わがままを言った。
たったそれだけのことが、五年分の何かをまた、少しほどいた気がした。
夕暮れの光が、ふたりの上に等しく降っていた。
第2部・完
アメリアは、これからも少しずつ、頼ることを覚えていく。
クロードは、これからも毎朝、アメリアの名前を呼ぶ。
白薔薇は、明日も庭園に咲いている。




