第2部・2話「名前の練習」
第2部・2話「名前の練習」
王宮の廊下は、朝と夕方で光の色が変わる。
朝は白く、夕方は金色になる。アメリアはここ数日で、それを覚えた。モンテ侯爵家では気にしたことのなかったことを、ここでは自然に目で追っていた。
見える景色が変わると、見えるものも変わるらしい。
そんなことを考えながら歩いていたら、角を曲がったところでクロードにぶつかりそうになった。
「っ、」
「アメリア」
クロードが先に名前を呼んだ。反射的に、という感じではなかった。ただ見つけたから、呼んだ。それだけのように聞こえた。
「……クロード殿下。どちらへ」
「お前を探していた」
「私を」
「昼食を一緒にと思って」
アメリアは少し間を置いた。
「……侍女を遣わせればよかったのに」
「俺が来たかった」
昨日の朝と、同じ言葉だった。アメリアは小さくため息をついた。呆れたため息ではなく、どこか温度のあるため息だった。
昼食はふたりきりで、小さな応接間に用意された。
給仕が料理を並べて下がると、静かになった。アメリアはナプキンを膝に置いて、向かいのクロードを見た。
昨日も、その前も、クロードはこうしてアメリアの近くにいた。執務の合間に来て、特に用もなく少しいて、また戻っていく。
不器用な人だと思った。でも、嫌ではなかった。
「アメリア」
「はい」
「ひとつ、頼んでいいか」
改まった声だったので、アメリアは少し身構えた。
「なんでしょう」
「名前で呼んでくれ」
アメリアは瞬きをした。
「……呼んでいます。クロード殿下、と」
「殿下、がいらない」
「式典の場では必要です」
「今は式典ではない」
「それは、そうですが」
クロードは真剣な顔をしていた。不器用なほど、真剣な顔を。アメリアは視線を逸らした。
「……クロード、と呼んでいるでしょう。時々」
「時々では足りない」
「足りない、とは」
「もっと呼んでほしい」
はっきり言った。まったく恥ずかしそうではなかった。アメリアの方が、よほど顔が熱かった。
「……練習、します」
小さく、アメリアは言った。
「練習?」
「急には、その、慣れないので」
クロードの口元が、わずかに緩んだ。
「今呼んでみればいい」
「今、ですか」
「ああ」
アメリアはクロードを見た。金色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。待っていた。
「……ク、ロード」
「ん」
「……今のは練習です」
「本番と変わらなかったが」
「変わります」
「どう変わるんだ」
アメリアは答えに詰まった。クロードが首を傾けた。本気で聞いていた。
「……もう少し、自然になります」
「今でも自然だった」
「私の中では不自然です」
「なぜ」
「五年間、誰かを名前で呼ばなかったから」
言ってから、少し驚いた。そんなことを口にするつもりはなかった。
クロードが静かになった。
「モンテ侯爵も?」
「夫を名前で呼んだことは、なかったかもしれません。旦那様、か、あなた、か」
「……そうか」
「おかしいでしょう」
「おかしくない」
クロードは短く言った。
「ただ」と続けた。「俺は、アメリアに名前で呼ばれたい」
「……」
「旦那様でも、殿下でも、あなたでもなく」
アメリアはテーブルの上で、指先を少し動かした。
「……クロード」
「ん」
「それは、練習ではありません」
クロードが笑った。声に出して笑った。
久しぶりに聞く笑い声だった。五年のあいだに忘れていた、あの笑い方。アメリアは少し遅れて、それを思い出した。
「じゃあ何だ」
「……本番、です」
言い終わってから、アメリアは俯いた。耳まで熱かった。
クロードはしばらく笑っていた。アメリアは俯いたまま、それを聞いていた。
不思議と、嫌ではなかった。
自分が誰かを笑わせている。その笑い声が、温かい。
そういうことが、世界にはあるのだと、アメリアはようやく知り始めていた。
昼食が終わる頃、クロードが立ち上がりながら言った。
「夕食も一緒にしていいか」
「……朝も昼も夕も、では執務に差し障りませんか」
「差し障る」
「では」
「それでも来る」
アメリアはため息をついた。温度のあるため息を。
「……クロード」
「ん」
「夕食の時間になったら、侍女を遣わせてください。自分で来なくていいです」
「なぜ」
「廊下でまたぶつかりそうになります」
クロードが少し目を細めた。
「それはそれでいい」
「よくないです」
「アメリアに会えるなら」
アメリアは何も言えなくなった。
クロードは満足そうに扉へ向かった。
その背中に、アメリアはもう一度だけ言った。
「……クロード」
クロードが振り返った。
「夕食、待っています」
金色の瞳が、ほどけるように細くなった。
それだけで、アメリアの胸が静かに、あたたかくなった。
名前を呼ぶことが、こんなに違うものだとは思わなかった。
呼ぶたびに、何かが積み上がっていく気がした。
五年間削られたものが、少しずつ、戻ってきていた。




