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第2部・1話「初めての朝」

第2部・1話「初めての朝」


 目が覚めた時、見慣れない天井があった。

 アメリアはしばらく、そのまま動かなかった。

 白と金の装飾。高い天井。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、見たことのない角度から落ちてくる。

 ここは、王宮だ。

 そしてもう、モンテ侯爵家ではない。

 五年間、毎朝同じ天井を見て目を覚ました。薄暗くて、静かで、誰も来ない朝だった。起きても起きなくても、誰も気にしなかった。

 今日は違う。

 そのことを確認するように、アメリアはゆっくりと身を起こした。

 身支度を整えようと立ち上がった瞬間、扉が鳴った。

 侍女にしては遠慮がない音だった。

「アメリア」

 声だけで、わかった。

「……クロード?」

「入っていいか」

「まだ身支度が」

「待つ」

 廊下で待つ、ではなく、扉の前で待つ、という気配がした。

 アメリアは小さくため息をついて、手早く髪をまとめた。

「どうぞ」

 扉が開いた。

 クロードが盆を持っていた。両手で、少し不格好に。

 その上に、ティーカップとスコーン、それから白薔薇が一輪、小さな花瓶に挿してあった。

 アメリアは瞬きをした。

「……何をしているのですか」

「朝食」

「それは見ればわかります。なぜ殿下が」

「クロードでいい」

「なぜクロードが朝食を」

 クロードは答える代わりに、部屋に入ってきた。窓際の小卓に盆を置いて、椅子を引いた。アメリアのために。

 自分の分は、なかった。

 アメリアを見るためだけに来た、ということが、その盆一つで伝わった。胸の奥が、静かに揺れた。

「侍女に頼めばよかったのに」

「俺が持ってきたかった」

 それだけだった。言い訳もなく、照れる様子もなく、ただそれだけ。

 アメリアは何も言えなくなって、おとなしく椅子に座った。

 向かいにクロードも座った。自分の分は持ってきていないまま、ただアメリアを見ていた。

「……見ていないでください」

「なぜ」

「食べにくいです」

「そうか」

 それでも視線は外れなかった。

 アメリアはティーカップを持ち上げて、口をつけた。よく蒸らされていた。アメリアが好む温度だった。

「……どうして私の好みを」

「八歳の時から知っている」

 アメリアは手を止めた。

 八歳。王宮の庭で、転んで泥だらけになっていたアメリアに、クロードが何も言わずにハンカチを差し出した、あの春。

「覚えているのですか、そんなことまで」

「全部」

 短く、迷いなく言った。

 アメリアの胸が、静かに揺れた。

「……全部、は言い過ぎでしょう」

「アメリアが紅茶に砂糖を入れないこと。スコーンはクロテッドクリームよりジャムを先に塗ること。眠い時に左の眉が少し下がること」

「っ」

「まだあるが」

「結構です」

 顔が熱かった。

 アメリアは俯いてスコーンに手を伸ばした。クロードが小さく笑った気配がした。

「笑わないでください」

「笑っていない」

「笑っています」

「……少しだけ」

 しばらく、静かな時間が流れた。

 アメリアが食べて、クロードが見ていた。

 モンテ侯爵家では、朝食はいつもひとりだった。広い食堂に、アメリアだけ。給仕が来て、下がって、それだけだった。

 誰かが向かいにいる朝食が、こんなに違うものだとは思っていなかった。

「アメリア」

「はい」

「王妃になって、怖いことはあるか」

 唐突な問いだった。アメリアは少し考えた。

「怖いこと、」

「無理に答えなくていい」

「いいえ」とアメリアは言った。「怖いことは、あります」

「たとえば」

「上手くやれるか。あなたの隣に、本当に相応しいのか。置物だった五年間の癖が、どこかで出てしまわないか」

 声は静かだった。感情を殺した声ではなく、力の抜けた静かさ。

 クロードは黙って聞いていた。

「それでも」とアメリアは続けた。「五年前より、ずっと怖くないのです」

「なぜ」

「五年前は、怖くても言える人がいなかった」

 クロードの金色の瞳が、静かに細くなった。

「今は」

「今は、います」

 アメリアは真っ直ぐにクロードを見た。灰青の瞳で、まっすぐに。

 クロードが立ち上がった。

 テーブルを回って、アメリアの隣に来た。それから、何も言わずにアメリアの手に自分の手を重ねた。大きくて、温かかった。

「怖い時は言え」

「……はい」

「言わなくても、だいたいわかるが」

「わかるのですか」

「左の眉で」

 アメリアは思わず左の眉を押さえた。

 クロードがまた笑った。今度は隠さなかった。

 アメリアも、笑った。

 白薔薇が、朝の光の中で静かに咲いていた。

 五年間、誰も来なかった朝に、今日は誰かがいる。

 それだけのことが、世界をまるごと変えていた。



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