最終話「隣に立つ人」
最終話「隣に立つ人」
戴冠式の朝は、よく晴れていた。
王都の空が高く澄んで、鐘の音が遠くから重なるように響いてくる。沿道にはすでに人垣ができていた。
旗が風に揺れ、花びらが石畳に散っている。
アメリアは鏡の前に立っていた。
深い青のドレス。肩から裾まで、光の角度によって夜の海のように揺れる色。侍女たちが髪を整え、手袋を合わせ、最後の仕上げを終えた時、鏡の中の女は、アメリアが知らない顔をしていた。
いや、違う。
知っていた顔だ。ただ、長い間、見ていなかっただけ。
「完璧でございます」
侍女のひとりが言った。アメリアは静かに頷いた。
式典が始まる前、控えの間にマリアンヌが飛び込んできた。
「遅れた、馬車が混んでて」
「あなたが時間通りに来たことは一度もないでしょう」
「それはそう」
マリアンヌはアメリアの全身を眺めて、それから目を細めた。毒舌家の親友が、珍しく何も言わなかった。
「……マリアンヌ」
「目にゴミが入っただけ」
アメリアは笑った。
「また?」
「王宮はゴミが多いのよ」
マリアンヌは乱暴に目元を拭って、それからアメリアの手を一度だけ強く握った。言葉はなかった。それで十分だった。
エドワードが迎えに来たのは、鐘が三つ鳴った後だった。
兄は扉の前でアメリアを見て、一瞬だけ黙った。
「……似合っている」
「ありがとう」
「父上が、廊下の角で待ち構えているから覚悟しておけ」
「やめてほしいのだけれど」
「無理だ。もう三回確認しに来た」
アメリアはため息をついた。けれどその息は、柔らかかった。
廊下の角を曲がると、ヴァルロワ公爵が立っていた。厳格な父が、娘の姿を見て、ただ静かに目を細めた。
「お前が幸せそうで、本当によかった」
あの時と同じ言葉だった。それでもアメリアは、今日もその言葉に胸を突かれた。
「父上」
「行きなさい。殿下が待っている」
アメリアは深く礼をして、前を向いた。
大広間への扉が、両側から開かれた。
アメリアは止まらなかった。
長い廊下を、一歩ずつ歩いた。 両脇に居並ぶ貴族たちの視線が集まる。囁きが聞こえた。けれど五年前と違った。 今日の囁きは、温度を持っていた。
祭壇の前に、クロードがいた。
深い茶髪。金色の瞳。
式典用の礼装が、いつもより整って見えたが、目だけはいつもと同じだった。アメリアを見つけた瞬間、少しだけほどけた、あの目。
アメリアは隣に立った。
クロードが、小さな声で言った。
「来た」
「来ました」
「似合っている」
「殿下も」
「クロードでいい」
「……式典中です」
「式典が終わったら」
「終わったら」
アメリアは前を向いたまま、静かに笑った。クロードも前を向いたまま、口元がわずかに緩んだ。
司祭の声が、大広間に響き渡った。
王冠が、クロードの頭に載せられた瞬間、大広間が静まり返った。
それからひとりが拍手をして、次々と重なっていった。鐘の音が外から届いた。窓の向こうで歓声が上がった。
アメリアはその全部を、隣で聞いていた。
置物として立っていた五年間は、いつも部屋の隅だった。誰かの背後だった。いてもいなくてもよかった。
今日は違った。
隣だった。対等な場所だった。求められて、立っている場所だった。
クロードがアメリアを見た。
アメリアはクロードを見た。
言葉はなかった。それでも全部、伝わった気がした。
式典の後、ベルトラン侯爵夫人がアメリアのそばに来た。
「よいものを見させていただきました」
老婦人の目が、穏やかに細くなっていた。
「殿下の隣に立てる方が、ようやく見つかりましたね」
アメリアは微笑んだ。
「見つかったのか、戻ってきたのか、自分でもよくわからないのです」
「どちらでも同じことでしょう」
ベルトラン侯爵夫人は静かに言った。
「あなたはずっと、あなたでしたよ」
夕刻、式典が終わり人が散り始めた頃、アメリアは昨夜と同じ庭園に立っていた。
白薔薇が、昼間の光の中では昨夜より明るく見えた。
足音が近づいてきた。振り返らなくてもわかった。
「終わった」とクロードが言った。
「終わりましたね」
「疲れたか」
「少し」
クロードが隣に立った。昨夜と同じ場所に。
「アメリア」
「はい」
「これからも、隣にいてくれ」
簡単な言葉だった。飾りのない、不器用な言葉だった。けれどアメリアには、それで十分だった。いや、それがよかった。
「はい」
今度は、答えだった。
白薔薇が風に揺れた。アメリアの金髪も、同じ風に揺れた。
灰青の瞳が、夕暮れの光の中で、静かに細くなった。
置物はどこにもいない。
侯爵夫人もどこかへ消えた。
ここにいるのは、アメリア=ヴァルロワ。
クロードの隣に立つ人。
それだけで、もう、十分だった。
完




