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二十九話「初めて呼ばれた名前」

 二十九話「初めて呼ばれた名前」


 戴冠式の前夜、王宮の小さな庭園に白薔薇が満開だった。

 アメリアはひとり、石畳の上に立っていた。夜風が淡い金髪を揺らす。灰青の瞳は、闇の中でかすかに光を帯びている。


 明日、すべてが変わる。

 そのことを、頭では理解していた。けれど胸の奥に、まだほどけきらない何かがあった。五年間かけて丁寧に積み上げた壁の、最後の一枚。


「アメリア」

 声がした。

 振り返るまでもなかった。この世界で、その名前をそう呼ぶ人間はひとりしかいない。


「……クロード殿下。前夜祭の席を抜け出してよろしいのですか」

「よくない」

 クロードは迷いなくそう答えながら、隣に並んだ。深い茶髪に夜露が光っている。金色の瞳が、白薔薇ではなくアメリアを見ていた。


「でも、ここにいた」

 短い言葉だった。言い訳もなく、飾りもなく、ただそれだけ。アメリアは小さく息をついた。


「五年、ずっとそうでしたね」

「そうだな」

「どこかに私がいると、来てしまう」

「そうだな」

 クロードはまったく否定しなかった。アメリアは苦笑した。笑うつもりはなかったのに、頬がほどけてしまった。


「……クロード」

「ん」

「私、ずっと不思議だったのです」

 アメリアは白薔薇に目を向けた。

「モンテ侯爵家にいた五年間、あの人は一度も私を名前で呼びませんでした。夫人、と。それだけ。最初はそういうものかと思っていた。でも途中から、気づいてしまった」

「……気づいた?」

「呼ばれない名前は、少しずつ自分から遠ざかっていくのです」

 声が静かだった。 

感情を殺した声ではなく、ただ静かな声。

「アメリアという人間が、どこかへ行ってしまう気がした。侯爵夫人でいることが上手になるほど、アメリアがどこにいるのかわからなくなっていった」

 クロードは何も言わなかった。


ただ聞いていた。それがアメリアには、どこよりも安全な場所のように感じられた。

「あの朝、花束が届いた時」

「ああ」

「白薔薇の中に、一枚だけ手紙が入っていました。あなたの字で、アメリアへ、と書いてあった」


 あの瞬間を、今でも覚えている。離縁状のインクがまだ乾ききっていない朝。ひんやりとした空気の中で、白薔薇の束を受け取った手が、少し震えた。

「それを見た時、なぜか泣きそうになりました」


「……泣けばよかった」

「泣けなかったのです。ずっと、泣かなかったから」


 あの夜だけは違った。崩れることができた夜が、一度だけあった。クロードの前でだけ。

「アメリア」

 また呼ばれた。


 今度は、さっきより近かった。

 アメリアはゆっくりとクロードを見上げた。金色の瞳が、真剣だった。不器用なほど、真剣だった。


「俺はずっと、お前の名前を呼んでいた」

「……はい」

「王宮にいる間も、遠くで見ている間も、呼べない夜も、全部。アメリアと呼んでいた」


 アメリアの胸の中で、何かが音を立てた。

 壁ではなかった。もっと柔らかい、ずっと奥にあったもの。五年間、誰にも触れさせなかったもの。


「だから」とクロードは続けた。「お前のアメリアは、どこにも行っていない」

 アメリアは瞬きをした。

 それから、もう一度。 


「……クロード」

「ん」

「今、少し、泣きそうです」

「泣けばいい」

「明日、戴冠式なのに」


「今夜のことは俺しか知らない」

 アメリアは笑った。今度こそ、本当に笑った。少しだけ力が抜けた、それ。

 白薔薇が夜風に揺れた。


 アメリアの頬を、一粒だけ、涙が伝った。

 クロードは何も言わなかった。ただ、隣にいた。

 五年分の名前が、ゆっくりと、アメリアの中に戻ってきた。


 翌朝、廊下でベルトラン侯爵夫人がアメリアを見かけた時、老婦人は静かに微笑んだ。

「よいお顔をなさっていますよ、アメリア様。――ずっと、そのお顔を待っておりました」


 アメリアは軽く会釈した。

「おかげさまで、ようやく」

 それだけ言って、前を向いた。  


 廊下の先に、深い青のドレスが待っていた。あの色。クロードが好きな、あの色。

 置物だった女は、もうどこにもいない。

 今日、アメリア=ヴァルロワは、王太子の隣に立つ。


 

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