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第十九話「侯爵家の綻び」 

第十九話「侯爵家の綻び」 


 八月になった。



 王都の社交シーズンが一段落して、貴族たちが別荘や領地へ移る季節だった。その静かな時期に、モンテ侯爵家の綻びは、じわじわと、しかし確実に広がっていった。



 ベルナールはその日も、執務室で書類の山と向き合っていた。



 ドミニクが入ってきた。手に書簡を何通か持っていた。その顔が、ここ最近ですっかり険しくなっていた。



「旦那様、本日も幾つか届いております」



「読め」



「はい。まずグレシャン商会からでございます。長年の取引についてご相談したいとのことで、来月の契約更新を一時保留にしたいと」



 ベルナールは眉を寄せた。グレシャン商会は、モンテ侯爵家が十年以上取引を続けてきた商会だ。アメリアが商会の夫人と親しくしていて、それが縁で関係が深まった相手だった。



「次は」



「ノワール子爵家からでございます。秋の狩猟会のお誘いを、今年は遠慮したいとのことで」



「……次は」



「マルタン男爵家からでございます。ご令嬢の婚約披露の夜会への招待を、今回はご辞退させていただくとのことで」



 ベルナールは机の上で手を組んだ。



 断られた。招待したのに、断られた。



 モンテ侯爵家からの招待を断るなど、以前では考えられなかった。だが今は、断られる側になっている。



「他には」



「本日はこの三件でございます。先月からの合計では……十四件になりました」



 十四件。



 ベルナールは天井を見上げた。



 一件一件は小さな話かもしれない。だがそれが十四件積み重なると、もう偶然とは言えなかった。モンテ侯爵家は今、社交界で静かに、しかし確実に、孤立しつつあった。



「財務の方は」



「はい。先ほど帳簿を確認いたしました。ランベール公爵家とシャルロワ伯爵家との取引縮小に加え、グレシャン商会の保留が続きますと——年内の収支が、かなり厳しくなるかと存じます」



「どの程度だ」



 ドミニクは少し間を置いた。



「率直に申し上げますと、このままでは年明けに、いくつかの支出を削減せざるを得ない状況になるかと」



 ベルナールは黙った。



 支出の削減。それが何を意味するか、わかっていた。使用人の削減。屋敷の縮小。社交への参加を減らすことによる、さらなる孤立。負の連鎖が、目に見えていた。



「アメリアが……持参金で補填していたというのは、本当か」



 ベルナールは低く言った。ドミニクは少し間を置いてから、静かに答えた。



「……はい。ヴァルロワ公爵家からの持参金は、相当な額でございました。それが侯爵家の財政の、一つの柱になっておりました」



「なぜ言わなかった」



「旦那様がお聞きになりませんでしたので」



 ベルナールは言葉に詰まった。



 そうだ。自分は聞かなかった。屋敷のことも、お金のことも、アメリアに全部任せて、何も聞かなかった。任せている、ではなく——丸投げしていた。それを今更、なぜ言わなかったと責めることは、できなかった。



「ドミニク」



「はい」



「俺は……どれほど、アメリアに頼っていたんだ」



 ドミニクはしばらく黙っていた。それから、静かに、しかしはっきりと答えた。



「……この侯爵家の、半分以上は、奥様が支えておいででした」



 半分以上。



 ベルナールは目を閉じた。



 半分以上を、あの人が支えていた。なのに自分は、置物と思っていた。台座に飾られた、格だけの飾りだと。



 笑えなかった。



 自分の愚かさが、今更ながら、痛いほどわかった。



「下がっていい」



「はい。失礼いたします」



 ドミニクが出ていった。



 執務室に一人残されたベルナールは、窓の外を見た。



 庭の薔薇は、すっかり手入れが荒れていた。夏の盛りなのに、花は少なく、雑草が目立ち始めていた。アメリアがいた頃には、こんなことはなかった。



 人脈も、財政も、屋敷も、庭も。



 アメリアがいなくなって初めて、何もかもが見えてきた。



 遅すぎる、と——また、あの言葉が頭の中で響いた。



 だがベルナールは今日、初めてそれ以外のことを考えていた。



 取り戻せないとしても。



 せめて、謝りたかった。



第十九話 了

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