第十四話「初めて泣いた夜」
第十四話「初めて泣いた夜」
六月になった。
クロードは相変わらず、三日に一度ヴァルロワ公爵邸を訪ねてきた。アメリアも社交界への復帰を続けていた。少しずつ、日常が形を作り始めていた。
その夜、クロードが訪ねてきたのは夕方だった。
いつもは午後の早い時間に来るのに、その日は珍しく遅かった。アメリアが応接室に入ると、クロードはソファに腰を下ろして、窓の外を見ていた。少し疲れているように見えた。
「お待たせしました。今日は遅かったですね」
「政務が長引いた」
「無理して来なくてもよかったのに」
「来たかったから来た」
クロードは窓から視線を戻して、アメリアを見た。それだけで、アメリアは少し胸が温かくなった。
侍女がお茶を運んできた。ふたりはしばらく、静かにお茶を飲んだ。今日はなぜか、言葉が少なかった。でも沈黙が苦しくなかった。ただ、同じ時間の中にいるだけで、落ち着いた。
「アメリア」
「はい」
「一つ、聞いていいか」
「何でしょう」
「今、どうだ。本当のところ」
アメリアは少し考えた。
本当のところ。その問いに、正直に答えるのが最近少しずつできるようになっていた。クロードの前では特に。
「……少し、疲れています」
「社交界か」
「それもありますが——違うんです。社交界は平気になってきました」
「では何が」
アメリアはカップをソーサーに置いた。少し間を置いてから、言葉を選んだ。
「自分が何をしたいのか、まだよくわからなくて。実家に戻って、社交界に復帰して、少しずつ日常が戻ってきているのに——この先、どうしたいのか、どう生きたいのか、まだ見えていないんです」
「……」
「侯爵夫人として生きることが、五年間の全てでした。それがなくなったとき、自分の中に何が残っているのか——まだ、よくわからないんです」
クロードは黙って聞いていた。
アメリアは続けた。言葉が、少しずつ溢れてきた。
「好きなものが、わからなくなっていました。何が食べたいか、どこへ行きたいか、何を着たいか——全部、侯爵夫人として適切かどうかで判断していたから。自分の気持ちで選ぶことを、忘れていたんだと思います」
「今は」
「少しずつ、思い出しています。桜色のドレスを着てみたら、嬉しかったです。マリアンヌと声を上げて笑ったら、気持ちよかった。あなたと話していると、楽でした」
クロードは少し目を細めた。
「それでいい」
「でも——」
アメリアの声が、わずかに揺れた。
「たまに、怖くなるんです」
「何が」
「また同じことをしてしまうんじゃないかって。誰かのために笑って、誰かのために生きて、また自分を見失うんじゃないかって。そういう生き方しか、私は知らないから」
言葉にしたら、思ったより胸が痛かった。
アメリアは俯いた。目の奥が、じんと熱くなった。泣かないようにしようと思ったが、今夜はうまくできなかった。
一粒、涙が落ちた。
それからもう一粒。
「すみません、こんな——」
「謝らなくていい」
クロードの声が、いつもより低く、静かだった。
アメリアは顔を上げられなかった。俯いたまま、目元を押さえた。
しばらくして、温かいものが、アメリアの手に触れた。
クロードの手だった。
何も言わずに、ただアメリアの手を包んでいた。
それだけだった。言葉はなかった。慰めもなかった。ただ、温かい手が、アメリアの手を包んでいた。
それが、何よりも楽だった。
アメリアはしばらく泣いた。声を上げずに、ただ静かに泣いた。五年間で、誰かの前で泣いたのは初めてだった。エレナの前でも、マリアンヌの前でも、父の前でも、兄の前でも——泣かなかった。心配をかけたくなかったから。
でもクロードの前では、泣けた。
なぜだろう、と思いながら——でも考えるのをやめた。理由はわからなくてもよかった。
泣き終わると、不思議と胸が軽かった。
「クロード」
「何だ」
「また同じことをしてしまうんじゃないか、という怖さは——どうすれば消えますか」
クロードはしばらく黙った。それから、ゆっくりと答えた。
「消えないかもしれない」
「……」
「でも——怖いと思ったとき、言える人間が隣にいれば、少しは違うんじゃないか」
アメリアは、その言葉をしばらく胸の中で転がした。
怖いと言える人間が、隣に。
「……そうですね」
アメリアは小さく頷いた。
クロードの手が、まだアメリアの手を包んでいた。
窓の外に、夜が静かに降りていた。
星が、ひとつ、またひとつと空に灯っていった。
第十四話 了
次話「クロードの告白」へ続く




