第四話
「兄さんに稽古をつけてもらってたんだけど……。僕、弱いからさ。油断して真正面からパンチ貰っちゃったよ」
不安そうに見つめるユリシアは、肩掛けの鞄から自分のハンカチを取り出し、噴水の水に浸すと、血が乾きかけた僕の鼻をそっと拭ってくれた。
「またトキ様……ですか」
殴られた鼻はまだ触られると、ちょっと痛い。
僕が「うん」と小さく頷くと、ユリシアは少し悲しそうな顔をしながら、僕の傍へと腰掛けた。彼女は胸元から出したロザリオを両手に持つと、小さく息を吐くように詠唱を始めた。
白く小さな光が彼女の手元を明るくする。
「レン様は小さいころから優しすぎます。それはとても良いことだとは思いますが、やめてほしいと思うことは、少しくらい言ってもいいのですよ」
そう言いながら、彼女が僕にかざした光は、そっと僕の痛みを和らげてくれた。
「今日はロッドがないので和らげるくらいしかできませんけど」と、真っ直ぐに僕を見つめる青い瞳に、僕は何を言えばいいか戸惑った。
この場面は、「僕」の記憶になかったから。
それが、書き換わった未来だからか、レンが忘れている記憶だからなのかは分からない。
でも、目の前に心配してくれる人がもう一人いることは少しだけ安心できた。
「そうだね、ユリシア。そうなれるようにならないとね」
そう言いながら、僕は元の世界のことを少し思い出していた。
元の世界で、僕のことを心配してくれる数少ない友人。
白瀬百合華。
彼女にも同じことをいつも言われて、「でも、そうなれないところが蓮なんだよね」と優しく笑顔で返されていたことを思い出していた。
百合華、今頃どうしてるんだろう。僕がいなくなって、きっと心配してるんじゃないだろうか、そんなことを、ふと思った時だった。
「――でも、そうなれないところが、レン様なんですよね」
僕は心底驚いて、ユリシアの顔を見た。
髪の色も、瞳の色も違うのに、聞きなれた言葉が彼女の口から出た。しかも、「僕」の記憶の中にも、彼女の今の言葉は何度も言われた言葉として残っていることに気づいた。
アキト君そっくりなトキ。
百合華と同じことを言うユリシア。
思い返せば、ミゲルの関心のなさは、まるで美緒ちゃんみたいだ。
そして、僕。
偶然にしては奇妙な一致に、全身が粟立つような感覚を覚えた。
驚く僕の顔を少し不思議そうに見つめるユリシアに、僕は頭を掻きながら誤魔化す。
「いつも心配かけて、ごめんね」
いつも同じ返しで、ごめんね、とも、心の中で思った。
大聖堂が正午を報せる鐘を打ち鳴らす。
「帰りが遅いと、マルク様が心配しますよ」
ユリシアは少し微笑みながら立ち上がった。
「そういえば、ユリシアはなんでここに?」
「王城の聖堂結界の確認に来ていました。午後から街の孤児院に呼ばれていたので、たまたま通りかかったら、レン様が血を流されていたので」
僕は苦笑いするしかなかった。
「僕」の記憶の中では、ユリシアと会うのはかなり久々だった。久しぶりの再会なのに、僕は鼻血を垂れ流して、半泣きになってる。なんとも情けないところを見せてしまったなと、僕は運命を少し呪った。
「レン様。孤児院の用事を済ませた後に、久しぶりにお屋敷にお邪魔してもよろしいですか?」
「喜んで! マルクたちもきっと喜ぶと思う。楽しみに待っているよ」
ユリシアはニコリと笑いながら頭を下げると、街のほうへと歩き出した。僕はユリシアの背中を見送りながら、ゆっくりと立ち上がる。
何が何だか分からないまま、この世界に放り出されて、心細かったので、ユリシアの優しさは、思っていたよりも深く、胸の奥に沁みた。
痛みはもうほとんど消えていたが、血のついた服だけが起きた現実をしっかりと記録していた。
◇
当然の反応だった。
屋敷の扉を開くと、マルクと侍女の二人が玄関ホールで待っていた。
頭を下げようとしたマルクの表情が固まり、次の瞬間、血相を変えて走り寄ってきた。
「レ、レン様!!」
率直なところ、高齢の人を走らせるのは申し訳ないなと思った。それと、朝はどこか愛想のない人だなと思った侍女も、手を震わせながらこびりついた血の跡を拭ってくれた。
「大丈夫。ユリシアに偶然会えて、彼女が治してくれたから」
僕は笑って見せた。
「さようでしたか。しかし、念のため、医者に診ていただきましょう」
マルクは少しほっとした表情を浮かべていた。
でも、それからが大変だった。
大勢の医者が現れ、王宮の事務官が形式的な事情伺いに現れたりと、「記憶」で分かってはいたけれど、冷遇された立場であっても、第三王位継承者というものが、やはり普通ではないことを改めて知った。
色々な人間が出入りし、全てが落ち着いたのは、ユリシアが訪れる少し前のことだった。
「レン様。ユリシア様がお越しになられました。テラスルームにお通ししております」
マルクのその報告は、立場にちょっとうんざりしていた僕には、まるで頑張ったご褒美のような嬉しさがあった。少し浮足立ちながら入ったテラスルームで見たユリシアは、午後の光を浴びて、とても綺麗だと思った。
「お待たせ、ユリシア」
僕は、踊りそうになる心を抑えつけて、務めて冷静なように振る舞った。
それから二時間くらいだろうか。
侍女が持ってきてくれた紅茶と菓子をお供に、「僕」の記憶を辿りながら、お互いの近況の報告や他愛もない話に花を咲かせた。
ユリシアは元々は第二聖女という、いわば、予備の聖女だった。
聖女候補になった女の子は、幼少期から修練のために、王城の聖堂にも頻繁に訪れるので、そこで僕はユリシアと出会った。
歳も近く、気も合うことから、すぐに仲良くなった。
というより、僕みたいな厄介者と親しくしてくれるのはユリシアくらいなものだった。
ところが、第一聖女様が不治の病に罹って病死してしまい、ユリシアは王国の第一聖女の立場を引き継いだ。
それまでは、こうやって二人でお茶をすることも多かったが、次第にそれも叶わなくなり、そして数か月ぶりにこうして再会できた。
廊下で待機していた侍女と目が合うと、彼女は小さく微笑み、靴音と共に離れていった。
僕とユリシアだけの時間が、ゆっくりと流れる。
「僕」はユリシアが好きだ。
だけど、それは言い出せずにいたし、お互いの立場を考えると言ってはいけない。
望んでもいけないものだということは、「僕」の記憶から十分に分かった。
お互いの笑い声が落ちた合間、ユリシアは少し俯いた。
「……レン様」
その声は妙に落ち着いていて、妙に大人っぽく感じた。
「三日後のサウスベルク砦に、レン様も行かれるのですね」
少しの間、忘れることができていた現実が戻ってくる。砦までの風景、戦場の光景、レンが見たもの、感じたもの、放った言葉、それらが洪水のように、僕の意識の中で渦巻いた。
「……ユリシアまで知ってるんだね」
僕はティーカップに視線を落とした。二人の間に沈黙が落ちる。
「……なぜですか?」
「え?」
「なぜ、レン様まで戦いに行かなければならないのでしょうか……」
その声はとても小さく、まるで独り言のようにも聞こえた。
「レン様は戦いの人ではないと思っています。レン様に万一のことがあったらと、私は心配でなりません……」
僕はユリシアの言葉にすぐには返事が出来なかった。
その万一が起こることを知っているから。いや、その万一が起きたから、僕はここにいる。
元の世界で最後に見た、あのログ。
《対応地点:新宿第七ダンジョン三層・未確認区域》
《対応因果錨:サウスベルク砦奪還失敗》
《未回収因果:王国騎士団壊滅/黒角獣発生源未破壊/レン・グレイフォード死亡》
レン・グレイフォード死亡。
レンは死ぬ。三日後のサウスベルク砦で。
そして、時間は巻き戻り、レンの代わりに僕がいる。
このログについては、分からない事だらけだ。
ただログに書いてあることに間違いがないなら、未回収因果ってヤツを回収すれば、きっと僕は元の世界に戻れるし、この身体はレン・グレイフォードに還るはず。
でも……。
もし失敗したら、どうなる?
成功すれば、本当に僕は帰れるのか?
帰ったとして、僕の身体は無事なのか?
そんな疑問には、ログは何一つ応えてくれなかった。
僕はティーカップを置き、ユリシアに向いた。
「ユリシア。僕は――」
そう言いかけた時、扉をノックする音が聞こえた。
向けた視線の先、マルクが深々と頭を下げている。
「お話し中、申し訳ありません。第四騎士団長、リオネ・グランハルト様が面会に来られております」
「第四、騎士団長……」
その名前を聞いた瞬間、戦いの匂いがまた一歩近づいてきた気がして、僕は少し胃がせり上がりそうになった。




