第二話
知らないはずの記憶が、暗闇の中で泡のように浮かび上がる。
石造りの屋敷、古びた紋章、冷たい食卓。訓練場の土の匂い。
魔力測定の水晶が、色も変わらず、ほとんど光らなかった日。
父の失望した目。兄たちの背中。使用人たちの冷たい目線。
僕は灰島蓮。
日本のFランク探索者だった。
未確認区域で新種の魔物と遭遇し、そして死んだ。
それは覚えている。
なのに、同時に思い出していた。
僕の名は、レン・グレイフォード。
グレイフォード王国の第三王子。
国王でもある、父オルドが妾との間に作った、名ばかりの王位継承者。
剣技も魔力も弱い失敗作で、無能のお飾り王子と呼ばれていた。
そんなある日、王国の辺境、サウスベルク砦に現れた魔物群の討伐隊の後方支援部隊として、騎士団長のリオネ率いる第四騎士団とともに出征することになった。
そして、事前情報と違う魔物の出現によって、隊列を分断された僕はその日死んだ。
グレイ王期百五十年、五月十日の出来事だった。
この記憶はなんだろうか。僕の記憶の中に、知らない「僕」の記憶が存在する。
確かめる術もなく、やがて、僕の意識はまるで深い海の中にゆっくりと沈むように、まどろみの中へと落ちて行った。
◇
目を開けると、知らない天井があった。
僕は、ベッドの上で横になったまま、確かめるように視線だけで部屋を見回した。
木の梁。
白い漆喰。
古びた燭台。
窓の外から差し込む朝の光。
「……自分の部屋だ」
僕の独り言は、広い部屋に静かに消えた。
「……違う。知らない。知らない場所のはずなのに、なんで知ってるんだ」
部屋の隅にあった姿見鏡が目に入る。
そこに映し出されていたのは、僕を見つめる少年の姿だった。
あれは誰だ、と思うのと同時に、そこに映るのが僕自身だと気付くのに、大して時間を必要としなかった。そこに映っていたのは、高校生の時の僕に嫌と言うほど似ていたからだ。
「僕は死んだはずじゃ……、それにこの姿って」
自分の声が震えていた。
知っている。
僕は、この少年の記憶を知っている。けれど、それは間違いなく、僕自身の記憶でもあった。
灰島蓮としての二十二年。
レン・グレイフォードとしての十六年。
二つの人生が、頭の中で重なっている。
吐き気がこみ上げてきた。
喉の奥に酸味を感じながら、それを押し込める。
ベッドの脇に置かれた水差しを掴み、冷たい水が喉を通った瞬間、ようやく少しだけ現実感が戻ってきた。
まとまらない考えを巡らせ始めた時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「レン様、お目覚めでしょうか」
初めて聞くはずの声が、執事のマルクだとすぐに分かった。
「起きてるよ、マルク。入って」
僕は自分でも驚くぐらい、自然と言葉が出た。
それが僕の日常に、当たり前に溶け込んでいることに不思議な感覚を覚えた。
「失礼いたします。おはようございます、レン様」
細身の装束に背筋の通った立ち振る舞い、丸眼鏡に口髭を蓄えた老紳士だった。
「顔色が優れないように見えますが、大丈夫ですか?」
マルクの言う通りだと思う。知らないのに知ってるという感覚は本当に吐き気を催す。
もう一度、鏡を見る。顔色が優れないと言うよりも、酷く怯えた顔をしていると気付いた。
「大丈夫。酷い夢を見ただけだから」
マルクは少し眉をひそめたが、すぐにいつもの優しい顔に戻っていた。
「お食事の用意ができております。お着替えいただきましたら食堂へお越しください」
マルクは一礼の後、部屋を後にする。
入れ替わるように入ってきた侍女に手伝われながら着替え始めたとき、僕は自分の体の異変に気付いた。
ダンジョンで黒い魔物に貫かれたはずの体には、傷一つない。それだけじゃない、「僕」の記憶だとサウスベルクという砦に行き、あの魔物とまた遭遇し、僕はその時も腹を貫かれて死んだはず。それなのに、その痕跡は僕の体のどこにもなかった。
「……レン様?」
鏡の前で上半身をさらけ出したまま、固まる僕に、侍女は怪訝そうな顔を浮かべていた。その表情に気づいた僕は、「なんでもないよ、ちょっと考え事をしていただけ」と誤魔化し、急いで着替えを済ませた。
僕が暮らしているのは、王城の敷地内に建てられた離れの館だった。
元の世界に比べれば、とんでもないほどの生活水準の向上なのは間違いなかったが、こちらの世界では、「僕」の生い立ちから、王子としてはかなり冷遇された生活だと言えた。
食卓に並ぶ皿は少なく、訪ねてくる者もいない。王城の中にありながら、ここだけが城の外に置かれているような場所だと分かった。
案の定、広い食堂で食卓につくのは僕一人だけで、侍女とマルクは壁際に控えているだけだった。ただ広く、ただ静かな室内に僕が出す食器の音だけが響いていた。
食事を済ませると、マルクは懐から小さなメモを取り出した。
「レン様。トキ様よりご伝言を賜っております。十時より訓練を行うので参加するように、とのことでございます」
トキ。
二人いる兄、長男の名だった。
そして、この光景を僕は知っている。
このあと、僕が返事をすると、マルクは眉間に皺を寄せながら頭を下げる。そして、手に持っていた、その小さなメモを手の中で握り潰して、右のポケットへと仕舞う。
「分かった。連絡ありがとう、マルク」
僕がそう言うと、マルクは眉間に皺を寄せながら頭を下げる。メモを硬く握り潰し、ポケットへ仕舞いこんだ。
「……レン様。差し出がましいこととは存じておりますが、辛いと思った時には、どうぞ降参なさってください。マルクは訓練の度に、レン様がいつか酷い怪我をなされるのではないかと、心配でなりません」
頭を軽く下げたままのマルクは心苦しそうに言った。
「ましてや、三日後にはサウスベルク砦の奪還作戦がございます。国王、いえ、お父上様からのご命令による出征前に大怪我をなさって参加できないとなれば、レン様に対する心象は大変悪くなるかと……」
マルクは本当に優しい。
物心ついた時には、もう既に僕の身の回りの世話をしてくれていた。忙しい父に代わって、まるで父親のように僕に接してくれたし、十歳の時に、母が病で死んでしまった後も、ずっと僕に寄り添ってくれた。
そんなマルクには、今日の訓練が兄の嫌がらせだと、すぐに気付いたんだろう。
だからこそ、大事に至る前に、降参しろと言っていることは、痛いほど分かった。
「……そうだね、マルク。そうするよ」
僕は静かに立ち上がった。
「これ以上、父上を失望させたら、ここにもいられなくなりそうだしね」
そう言い残して、僕は食堂を後にした。
マルクは僕が食堂を出るときも深々と頭を下げたままだった。
◇
訓練場は王城の端にある屋内施設だった。
僕は訓練着に着替え、木剣を持って、兄が指定した時間の五分前には到着していた。
トキは、次兄のミゲルを連れて、十分遅れでここに到着することを僕は知っている。
訓練場の天井を見上げながら、マルクが言っていた言葉を思い出していた。
三日後に父の命令で出征がある。だから、ここで大怪我をするべきではない。
その言葉の優しさに少し心が暖められた瞬間、聞き流してしまっていたマルクの言葉の重大性に気付いた。
……ちょっと待って。
三日後にサウスベルク砦への出征がある、とマルクは言った。
でも、僕にはサウスベルク砦で、魔物に殺された記憶がある……。
これからここで起きる事も、三日後に何が起きるかも、僕は知ってる、いや、覚えている。
つまり、「僕」はこの世界で死んだ後に、時間が三日前に巻き戻って。
僕が元の世界から来て……。じゃ、あのスキル開示って……。
「どういうこと……」
考えるほど、胃がせり上がるような感覚も強くなる。
それでも、この知らないのに知ってる世界が、現実なのか夢なのかも、今はまだ曖昧なままだった。
その時、訓練場の扉が開き、二つの人影が、外の光の中から現れた。
「よう、レン。ちゃんと来たな」
僕は自分の目を疑った。
兄トキの顔を見た瞬間、僕の中の灰島蓮の心臓が鷲掴みされたように震えた。
「ア、アキト君……?」




