第一話
これは助からないやつだ。
ダンジョンの壁にもたれ掛かり、僕は自分の体に起きたことを理解した。
下腹部から足元に広がる生温い液体と、鼻の奥に充満する錆びた鉄の臭い。息苦しさに呼吸を早めてみても、肺が拡がっていかない感覚を初めて知った。
少しずつぼんやりとする意識の中で、痛いという感覚よりも、暑いと寒いが混ざり、それは強烈な吐き気となった。
そして、僕の意思とは関係なく吐き出されたそれは、口元を抑えた手を赤黒く染めた。
立たなきゃ。
今すぐ逃げないと。
助からないと分かっていても、心のどこかで、まだ何とかなるかもしれないと思ってしまう。
しかし、体を思い通りに動かすことも出来ず、立ち上がろうとして、僕はそのまま前のめりに崩れ落ちた。
ダンジョン探索者になって、三年。
死にかけたことは、何度かある。
罠に掛かりそうになったり、魔獣の群れに囲まれたこともある。
友達のよしみでアキト君たちS級パーティに拾われた幸運なFランクの補助要員。
所詮、荷物持ちの罠確認役でコメント欄で「無能くん」と呼ばれていたとしても、必死にパーティの役に立とうと頑張ってきた。
でも、今回は本当に駄目なやつだ。
僕は下腹部に空いた大穴を見て、そう思った。
「ア、アキト君……」
口から漏れたのは、声とも呼べない、か細い笛のような音だった。
かすみ始めた視界の遥か先、地べたに伏した僕の目に映ったのは、彼らの足がゆっくりと後ずさる光景だった。
「蓮、悪いな」
そう言ったのは、僕が所属していたS級探索者パーティ『グローリー・レイド』のリーダー、神代アキトだった。
アキト君が言う『悪いな』の意味を理解するのに、そう時間は掛からなかった。
目の前には、僕の腹を貫いた黒い魔獣。その向こうで後ずさる仲間たち。
助けるつもりはないという意味だと気付いた時、自然と悔しさよりも諦念の境地に達した。
「灰島君。ここであなたを助けようとすれば、きっと全滅する。探索者なら分かるでしょ?」
弓使いで、配信の看板でもある天羽美緒が、少し震えた声で言った。
分かりたくない。そんなもの分かりたくもなかった。
でも、僕の立ち位置と美緒ちゃんたちの立ち位置を見れば、明らかに分かる。
僕を囮に使ったんだろ?
アキト君の判断は、たぶん探索者としては間違っていない。
この第七ダンジョン三層の未確認区域は、もともと危険度が高い。しかも、さっき出現した黒い獣型の魔物は、事前情報にない新種個体だった。
Sランクパーティでも、まともに戦えば被害が出る。
状況は予想外の方向に進んだ。だから、僕なんかに構ってなんかいられない。
パーティを守るために、戦略的に撤退する。
それは分かる。理屈も分かる。
でも、せめて最初から言ってほしかった。
お前は仲間じゃない。死にそうになったら切り捨てる。
そう言ってくれていたら、僕だってもう少し違う覚悟、違う立ち振る舞いができたかもしれない。
「配信、切れてるよな?」
炎系スキル使いの榊零士の声が聞こえた。
その言葉に、アキト君がわずかに眉を動かす。
「切った。今のは事故だ。撤退判断も正当化できる」
「コメントは?」
「マネージャーが処理する」
処理。
僕の死は、処理されるらしい。
視界の端で、壊れかけた小型カメラドローンが火花を散らしていた。
僕たちの攻略配信に使っていた撮影用ドローンは、さっきの魔獣の攻撃で半壊し、地面に転がっていた。
配信は切られた。
レイジ君も、アキト君もそう思っているようだけど、ドローンの横に浮かぶ小さな半透明の画面には、いまだコメントが流れていた。
《え? 灰島置いてくつもりか?》
《今の何?》
《配信切れてないぞ》
《グローリー・レイド逃げてね?》
《いやいや演出だろ?》
《灰島動いてない》
《血出てる》
《これマジでやばいやつじゃないの?》
《ミオちゃん戻って!》
《神代、助けろよ》
見られている。
僕が死んでいくところを、誰かが見ている。
なのに、誰もここには来ない。
不思議なものだと思った。
画面の向こうには何千人もいるのに、僕の手を掴める人間は、一人もいない。
「……ごめんね、蓮くん」
ミオちゃんが言った。
小さな声だった。
配信では絶対に出さない声だ。
「配信って、数字と絵面が全部だから」
その言葉で、胸の奥に残っていた最後の熱が冷えた。
ああ、そうか。僕は数字にもならないのか。
死ぬ瞬間まで、僕はその程度の存在だった。
アキト君たちの背中が遠ざかる。
足音が、通路の向こうへ消えていく。
黒い獣型の魔物が、ゆっくりと近づいてきた。
狼にも似ている。だが、角がある。目は六つ。口からは黒い瘴気が漏れていた。
僕の背中を貫いたのは、こいつの尻尾だ。
太い槍のような尻尾を、まるで鞭のように振り回している。
もう、痛みは遠かった。
怖いという感情も、少しずつ薄れていく。
せめて一度くらい、荷物持ちではなく、探索者として役に立ちたかった。
置き去りにされて、配信のノイズの向こうで、知らない誰かのコメント欄の話題になりながら、僕の人生は終わる。
魔物が歩みを止め、こちらを睨んでいた。
尻尾が垂れ、先端が細かく揺れる。
ああ、これで本当に終わりだ。
そう思った瞬間。
視界の中央に、見覚えのない文字が浮かんだ。
《死亡確定状態を確認》
目先、数メートルすらも霞んでみえない僕の目にも、それははっきりと映った。
《スキル解放:チェイン&リンク》
《現代側肉体の因果凍結を開始します》
《対象者:灰島蓮》
《対応因果を検索中......しばらくお待ちください》
なんだ……、これ。
スキル解放?
チェイン&リンク?
僕のスキルは、低級の危機察知だけだ。
しかも察知精度が低く、役に立たないと言われ続けてきた。
《対応地点:新宿第七ダンジョン三層・未確認区域》
《対応因果錨:サウスベルク砦奪還作戦の失敗》
《未回収因果:王国騎士団壊滅/黒角獣発生源未破壊/レン・グレイフォード死亡》
レン、グレイフォード?
誰だ? 名前は同じ響きだけど、そんな人は知らない。
《チェイン&リンクを起動します》
《第一同期を開始》
《死亡情報を保存》
《黒角獣の攻撃情報を記録》
《現代側復帰条件を開示:因果核回収、または主因果解決》
何だ、何が始まろうとしている?
そう思った瞬間、黒い魔物の尻尾が大きく振り上げられた。
画面の向こうで、コメントが爆発する。
《やばい》
《死ぬぞ》
《誰か助けろ》
《神代戻れよ!》
《灰島ヤバい!》
《おい、画面が……》
視界が、黒く潰れた。
音も痛みも消えた。
体の感覚も、重力も、血の匂いも、全部が遠ざかっていく。
最後に見えたのは、ログの文字だった。
《転送開始》
《開始地点:事件発生三日前》
《注意:肉体の活動再開がスタート・トリガーとなります》




