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天使の仕事

 シロエの人生は、あの日を境に静かに、しかし確実に変わり始めていた。量子空間で――天使として目覚めた、あの瞬間からだ。

 三三三の現実世界。だが、そこに戻ったシロエの視界は、もはや以前のそれとは違っていた。

 探偵としての仕事も同じだった。依頼を追う視点が、明らかに変わっていたのだ。

 これまでは証拠を集め、事実を繋ぎ、論理を積み上げて真実に辿り着く。それが探偵という仕事だと思っていた。だが今のシロエは、それだけではなかった。

 人の感情の流れ。

 場に残る微かな違和感。

 偶然の奥に潜む必然。

 まるで世界そのものが、静かにヒントを囁いてくるようだった。結果、依頼は増え続けた。

 月を追うごとに仕事量は膨れ上がっていく。普通なら疲れ果ててもおかしくない。だが不思議なことに、その忙しさすら楽しく感じていた。

 むしろ――充実していた。

 気づけば、週に二日はアシスタントを雇うまでに事業も拡大していた。一人で抱えていた仕事は、いつの間にか小さなチームの仕事へと変わっていたのである。

 変化は、仕事だけではなかった。プライベートの時間も、大きく変わった。

以前のシロエは、週末になると家で静かに過ごすのが常だった。仕事の疲れを癒すため、誰とも会わず、一人で過ごす。それが普通だった。

 だが今は違う。久しく会っていなかった友人たちと連絡を取り、週に一度は一緒に街へ出かけ、洋服を見て回るようになっていた。店のショーウィンドウを眺めながら笑い合い、気に入った服を見つけては、あれこれと試着して楽しむ。

 そんな何気ない時間が、今のシロエにはとても新鮮だった。

 タンスに服が増えていくと、今度はフリーマーケットに出店する。小さな個人ブースを開き、いらなくなった服を並べる。それがまた、次の服を買う資金になる。気づけばそれも、すっかり気に入った習慣になっていた。

 そしてもう一つ――

 シロエの楽しみが増えたものがある。料理だ。

 以前は決まったメニューを、決まった曜日に作るだけだった。一週間のルーチンを淡々とこなす。だが今は違う。作りたい料理が次々に浮かんでくる。新しいレシピを見つけては試し、食材を買い込む。その結果、冷蔵庫はいつも食材でいっぱいになっていた。

週末には友人を招き、ランチやディナーを共にする。テーブルを囲みながら笑い合う時間が、今では何よりの楽しみになっていた。

 すべてが変わったわけではない。だが、シロエ自身が変わったのだ。物事を、前向きに捉えるようになった。そして、少し高い場所から世界を見るようになった。

 目の前の出来事だけではなく、その先にある流れまで見ようとするようになった。その視点の変化が、シロエの心に、ゆるやかな余裕を生み出していた。

 焦りも、苛立ちも、以前ほどはない。世界は、思っていたよりも広く、そして、思っていたよりも面白い。そう気づいたとき、シロエの生き方そのものが、静かに変わり始めていたのだった。


 「ねえ……探偵シロエに、お願いがあるんだけど」

 少し躊躇うような声だった。

 「お願いしてもいいかな。……ちょっと言いにくいことなんだけど」

 そう切り出したのは、エム・ファニング。高校時代からの友人で、シロエが最も信頼している相手の一人だ。互いに遠慮はない。嬉しいことも、くだらない悩みも、そして――誰にも言えない本音も。探偵稼業を始めるきっかけを作ったのも、彼女だった。

 「何よ、かしこまって」

 シロエは肩をすくめて笑った。

 「エムの相談なら何でも聞くわよ。ほら、言ってみなさい」

 エムはしばらく黙っていた。テーブル越しにシロエの顔を覗き込む。その視線は、どこか不安げで――やがて、覚悟を決めたように口を開いた。

 「……カズのことなんだけど」

 「ああ、彼氏ね」

 シロエが軽く言うと、エムは小さく頷いた。

 「最近ね、付き合いが悪い時があるのよ」

 グラスを指先で回しながら、エムは続けた。

 「前は、どんなに忙しくても時間を作ってくれてたのに……」

 「仕事が忙しくなったんじゃないの?」

 シロエは自然な口調で返す。

 「彼、エンターテインメント系の仕事でしょ?大きな案件でも入ったんじゃないの」

 エムは少し首を振った。

 「……それならいいんだけど」

 一拍、沈黙が落ちる。

 「会ってる時でも、どこか落ち着かないのよ。スマホばかり気にしてたりして……」

 そして、ぽつりと呟いた。

 「……私、思うんだけど」

 エムは視線を落とす。

 「新しい彼女、できたんじゃないかなって……」

 シロエは黙ってエムを見つめた。その目は、探偵のそれでもあり、同時に――友人の目でもあった。

 「つまり」

 静かに言う。

 「浮気してるかどうか、調べてほしいってことね」

 エムは一瞬、言葉を失った。そして視線を逸らし、ゆっくりと頷いた。

 「……うん」

 シロエは背もたれに身体を預けた。

 「わかった。エムの頼みなら調べるわ」

 さらりと言う。

 「浮気調査なんて簡単よ。その気になれば、すぐ答えは出るわよ。けど……」

 だが――そこで、言葉を止めた。

 「けど?」

 エムが顔を上げる。シロエは、少しだけ真剣な表情になった。

 「エムの性格を知ってるから、先に一つ言っておく」

 ゆっくりと言葉を選ぶ。

 「本当に、その答えを知りたい?」

 エムのグラスを回す手が止まった。

 「知らないまま、二人で話し合う方がいい場合もあるのよ」

 静かな声だった。

 「もしもよ。カズが浮気してたとして」

 シロエはエムの目を真っ直ぐ見た。

 「それを知った上で話し合ったら、もう普通の目線じゃ話せない」

 そして続ける。

 「逆に、浮気してなかったら?」

 エムの視線が揺れた。

 「疑って調査までした自分を、どう思う?」

 シロエは静かに言った。

 「エムならきっと後悔する。そして、その気持ちは――二人の関係を変えてしまうかもしれない」

 テーブルに、しばらく沈黙が落ちた。エムは俯いたまま、何も言わない。グラスの中で、氷が小さく音を立てた。シロエは急かさなかった。ただ、エムが答えを見つけるのを待っていた。

 やがて――

 エムは小さく息を吐いた。

 「……そうよね」

 ゆっくり顔を上げる。

 「カズを信じないとね」

 少し照れたように笑った。

 「きっと仕事でバタバタしてるだけよ。あの人の仕事、簡単じゃないの知ってるし」

 そして肩をすくめる。

 「今は私が支える側にならないとね」

 エムはグラスを持ち上げた。

 「ごめんね、シロエ」

 シロエは軽く笑った。

 「いいのよ」

 そして優しく言った。

 「もし本当に駄目になりそうな時は、ちゃんと本人と話しなさい」

 グラスを持ち上げる。

 「その時は――探偵じゃなくて」

 一拍置く。

 「シロエとして相談に乗るわ」

 エムの顔がぱっと明るくなった。

 「ありがとう」

 その夜は――

 結局、ワインを二本空けた。そのあとウイスキーの栓まで抜くことになり、気が付けば深夜になっていた。笑い声の絶えない、久しぶりに賑やかなディナーだった。


 ――その夜の量子空間。

 静寂に満ちたその世界に、シロエは静かに降り立った。今夜のシロエには、はっきりとした目的があった。

 初めて――自分の知る人物の空間へ入ると決めていたのだ。

 「セディー、今日は私一人で回るわ」

 隣に浮かぶ案内役のセディーにそう告げる。セディーはすぐに肩を落とした。

 「……はぁ。やっと解放されるのね」

 わざとらしいため息をつく。

 「シロエと行動すると、その内容を全部マスターに報告しないといけないのよ。結構面倒なの」

 「そうなの?」

 シロエは目を瞬かせた。

 「マスターに言われてるの?」

 「言われてます」

 セディーは即答した。

 「強く言われてます。めちゃくちゃ強く言われてます」

 「何で?」

 セディーは呆れた顔になる。

 「“何で?”って……」

 指を突きつける。

 「あなたが天使階級だからでしょ。わかるでしょ普通」

 「天使と行動すると、何で報告しないといけないの?」

 「天使のボスに何か言われるかもしれないでしょ」

 「ふーん」

 シロエは腕を組んだ。

 「でも私、ミカエルと会ったこともないし、コンタクトも取ったことないけど」

 セディーは肩をすくめた。

 「シロエが変わった天使だからでしょ」

 少し笑う。

 「あなたの場合、ミカエル様より――ルシファー様側の天使かもしれないわね」

 シロエは両肩を上げて見せた。

 「さっぱり分からないわ」

 そして軽く笑う。

 「まあいいわ。今日は一人で行動するから、セディーは好きにして」

 セディーは目を細めた。

 「今日で解放?」

 「今日だけ解放」

 セディーは深くため息をつき、軽く頭を下げた。

 「……御意に」


 シロエはすぐに、目的の空間へ向かった。カズの量子空間。境界を越えた瞬間、景色が変わる。そこに広がっていたのは――完全に静止した世界だった。

 風もない。

 音もない。

 すべてが凍りついたように止まっている。

 「まだ三三三で活動中ってことね」

 シロエは小さく呟いた。

 「この時間もまだ働いてるなんて、忙しい人ね」

 視線を巡らせると、空間に指をおいて記憶空間の入口を開いた。シロエは迷いなく入っていった。

 中へ入った瞬間、思わず声が漏れた。

 「……うわ」

 無数の光の玉。それぞれが記憶の結晶。だが、その多くが――異常なほど大きく、そして美しく輝いていた。

 「音楽家……スポーツ選手……」

 シロエは次々と記憶を見ていく。

 「テレビで見たことある人ばっかりね」

 思わず笑った。

 「さすがエンタメ業界ね」

 記憶の輝きが物語っている。

 「どの記憶も鮮明……カズは記憶力がすごくいいのね」

 探偵の目で分析する。

 「これだけ多くの鮮明な記憶を持つ人はそうはいない、仕事もできる人ね」

 シロエは最近の記憶を探した。だが並んでいるのは、ほとんど仕事の記憶ばかりだった。

 その中で――一つだけ。明らかに異質な光があった。特大の記憶玉。しかも白ではない。青白く、強烈な光を放っている。

 「……これは」

 シロエはゆっくり近づいた。中を覗く。すると――美しい女性と、カズが向かい合っていた。思わず息を止める。


 『ほんとに綺麗だ。俺にとって世界で一番美しいよ』

 『ありがとう。そんなに褒めてもらえると嬉しいです』

 カズの手には――巨大なダイヤの指輪。

 『ラナ、名前も彫って渡した方がいいかな』

 『その方が嬉しいわ。日付も入れた方が嬉しいかも』

 『OK。じゃあ名前と日付を入れて渡すよ』

 シロエの胸が少しだけ痛んだ。

 「……これは」

 見続けるのは辛い。そう思った。だが――言葉の節々にどこか違和感があった。二人の会話の空気が、恋人同士のそれではない。シロエは、もう少し先を覗いた。

 『ラナ、本当にありがとう』

 『私も本当に嬉しいわ』

 女性は輝くダイヤを見つめていた。

 『指定通りの石を二か月の間、世界中探し回ってやっと見つかった品。しかも――これを私にロイヤル201カットさせてくれるなんて』

 興奮した声で続ける。

 『夢みたい。絶対に失敗しません』

 『頼むよ、セニョリータ』

 カズは笑った。

 『まだカットしてないけど、これを貰う女性は世界一幸運ね。その女性とは長いの?』

 『君も一度会ったことある子だよ』

 カズは言った。

 『ファニング。エム・ファニング』

 女性は目を丸くする。

 『えっ。あの天然女子?会った時、この子の彼氏は大変だろうなって言った子よね』

 『そうそう』

 カズは笑った。

 『俺がその大変な彼氏だよ』

 二人は笑った。

 シロエはそっと記憶玉から顔を離した。

 そして――小さく微笑んだ。浮気どころの話ではない。エムへのプロポーズの準備。それだけだった。

 シロエは静かに自分に言い聞かせた。これは絶対言ってはいけない。エムから直接、幸せな報告を聞くまで。いや、そうじゃない。私は何も見ていないし、何も知らない。


 「あれ?」

 背後からセディーの声がした。

 「もう戻ったの?一人だと退屈だった?」

 シロエは振り返る。

 「ああ、違うの」

 軽く笑った。

 「今日は一件でお腹いっぱいかな」

 「へえ」

 セディーは不思議そうに首を傾げる。

 「珍しいわね。いつもなら色んな人の記憶を見て、真似して遊んでるのに」

 肩をすくめる。

 「まあ、たまにはハズレもあるわよ」

 そして軽く礼をした。

 「また次回に期待しましょう。シロエ卿」

 「……」

 シロエは何も言わなかった。

 「あれ?」

 セディーが目を細める。

 「シロエ卿って言ったら、いつもなら突っかかってくるのに。今日は静かね」

 だがシロエは別のことを考えていた。今、自分は――真実を見た。記憶の奥にある本当の答え。それは、探偵がどんな調査をしても辿り着けない場所にある真実だった。

 確かに、これは――プライバシーの奥底を覗く行為だ。だが同時に。この力は。数多くの問題を解決できる力でもある。シロエは静かに思った。

 「……これは」

 小さく呟く。

 「探偵の仕事に使えるかもしれないわね」


 翌日――

 シロエは州警察の庁舎を訪れていた。目的は一つ。行方不明になった子供の情報を確認するためだ。失踪届が出されてから一年以上。すでに捜索範囲は州を越え、全米にまで広がっている案件だった。

 州警察を訪れるのは初めてだったが、建物に足を踏み入れた瞬間、シロエは思わず目を丸くした。慌ただしい。まるで祭りのような騒がしさだった。電話の呼び出し音。走り回る警官。机の上に積まれた書類の山。最寄りの警察署とは、空気がまるで違う。

 受付らしい窓口を探して視線を巡らせていると、目の前を一人の女性警官が通り過ぎた。

 シロエは思い切って声をかけた。

 「すみません」

 女性警官は横目でちらりとこちらを見る。その視線は一瞬、鋭かった。だが振り向いた瞬間、表情が柔らぐ。

 「どうしました?」

 シロエは少し緊張しながら言った。

 「こういう場所に来るのは初めてで……誰に聞けばいいのかも分からなくて」

 一度言葉を整える。

 「行方不明の子供の情報を確認したいのですが、どうすればいいでしょうか?」

 女性警官は短く頷いた。そして、庁舎の奥を指さす。

 「右奥の部屋。そこに検索マシンがあるわ」

 それだけ言うと、足早に去っていった。シロエは小さく息を吐いた。

 「……忙しいのね」

 自分にそう言い聞かせながら、指示された部屋へ向かった。


 小部屋は、思ったよりも狭かった。広さは五坪ほど。中には三台のデスクトップパソコンが並んでいる。だが――

 「……古い」

 思わず呟いた。今にも止まりそうな、時代遅れの機械だ。本当に動くのだろうか。半信半疑でマウスを動かすと、画面が点灯した。意外にもディスプレイは綺麗だった。だが問題があった。

 「どれ押すの……」

 デスクトップには大量のアイコンが並んでいる。どれがデータベースなのかまったく分からない。マウスは迷子のように画面をさまよっていた。その時――背後から声がした。

 「それ、検索画面はこっちですよ」

 「ひゃっ!」

 シロエは椅子から飛び上がりそうになった。心臓が一瞬止まった気がした。

 「おわっ」

 声の主も驚いて身構える。振り返ったシロエの目に飛び込んできたのは――巨大な男だった。身長は一九〇センチを優に超えている。腕は丸太のように太く、制服の布地が今にも裂けそうだった。どんな食事をしたらこんな体になるのか。そう思えるほどの筋肉質の警官だった。シロエは慌てて頭を下げた。

 「す、すみません。入って来たのに全然気づかなくて……」

 男は優しく笑った。

 「いえいえ、大丈夫ですよ」

 穏やかな声だった。

 「こちらに行方不明の子供を探している方が来ていると聞きまして。マシンの使い方を教えに来ました」

 シロエの顔がぱっと明るくなる。

 「よかったー!ありがとうございます!」

 胸を撫で下ろした。

 「何をすればいいのか、ちょうど迷ってたところでした」

 警官は後ろから画面を覗き込む。

 「さっき少し見てましたけど、完全に迷子でしたね」

 笑いながら言う。

 「ところで、誰か特定の子供を探しているんですか?」

 キーボードを操作しながら続ける。

 「実は、ここに検索しに来る人ってあまりいないんです。普通は捜査結果を家で待つだけですから」

 ちらりとシロエを見る。

 「差し支えなければ、検索する理由を聞いても?」

 シロエはバッグから名刺を取り出した。

 「私、探偵なんです」

 男は名刺を見る。

 「モレッツ探偵事務所……」

 シロエは続けた。

 「行方不明のペットを探す依頼が結構あるんです」

 少し照れくさそうに笑う。

 「自分で言うのもなんですけど、見つけるの得意なんです」

 そして真剣な顔になる。

 「それで、ふと思ったんです」

 一呼吸置く。

 「行方不明の子供も……探せるんじゃないかって」

 警官は静かに話を聞いていた。

 「もちろん、人間とペットが違うのは分かっています」

 シロエは言った。

 「でも――」

 目が強く光る。

 「試してみたいんです」

 男は名刺を眺めながら言った。

 「なるほど」

 少し笑う。

 「馬鹿にするつもりはありませんが……」

 肩をすくめた。

 「おっしゃる通り、ペットと人間はまったく違います」

 キーボードを叩く音が響く。

 「誘拐犯の移動範囲はペットとは比較にならない。しかも犯人は証拠を消そうとします」

 画面を指差した。

 「我々は国中のネットワークを使って捜索しています。それでも見つからないのが現状です」

 だが男は、ふっと笑った。

 「でも――」

 シロエを見る。

 「モレッツさんの行動を止めるつもりはありません」

 検索画面を開いた。

 「気が済むまでやってみてください」

 そして少し声を落とす。

 「もしもですよ。もし、新しい情報を見つけたら――」

 視線が鋭くなる。

 「必ず我々に連絡してください」

 シロエは真剣に頷いた。

 「もちろんです」

 男は笑った。

 「あなたは素人じゃない」

 名刺を軽く叩く。

 「個人事務所を持つ探偵です」

 肩を叩いた。

 「応援しますよ」


 シロエは検索を始めた。行方不明になった子供のデータが、次々と画面に表示されていく。慎重に条件を絞っていく。そして――一人の少女を選んだ。

 失踪から四年以上。誘拐されたのは、今頃、小学二年生になる頃の女の子。

 選んだ理由は二つあった。誘拐現場が比較的近いこと。そして――少女の名前だった。画面に表示されている文字を、シロエは静かに読み上げた。

 「アカエ・モレッツ……」

 自分と同じ姓。偶然かもしれない。だが、それでも――どこか運命のように感じた。シロエは住所や情報を丁寧にメモした。そして、男性警官に挨拶をして静かに席を立つ。

 州警察の建物を出ると、冷たい風が頬を撫でた。シロエは空を見上げた。

 「……よし」

 小さく呟く。これが――最初の子供の捜索になる。


 その夜――シロエは再び量子空間へと降り立っていた。今夜の目的もはっきりしていた。

 ――アカエ・モレッツ。州警察で見た、あの少女だ。

 「セディー、今日はまた一人で行くわ」

 そう言うと、シロエは意識を集中させた。名前と顔を思い浮かべる。昨日と同じ方法。

 ――だが。いくら探しても、空間が見つからない。シロエは眉をひそめた。

 「ねえ、セディー」

 振り返る。

 「行きたい量子空間が見つからないんだけど。これってどういうこと?」

 セディーは顎に指を当て、考える仕草をした。右肘を左手で支えながら、ゆっくり口を開く。

 「そうねぇ……」

 少し間を置く。

 「対象のエネルギー体が量子人じゃない場合、そのエネルギー体は消滅するの」

 「消滅?」

 シロエの表情が固まる。

 「それって……死んじゃうってこと?」

 「あー、そうそう」

 セディーは軽く頷いた。

 「三三三の場合は、肉体からの解放って意味ね」

 さらりと言う。

 「もちろん、すぐ消えるわけじゃないけど。時間が経てば量子の痕跡は消えていくわ」

 シロエは腕を組んだ。

 「ちなみに」

 セディーが続ける。

 「天使さんはどうやって目的の空間を探してるかしら?」

 「顔と名前を想像してるだけよ」

 シロエは答えた。

 「昨日はそれでうまくいったから、今回も同じ方法」

 セディーは小さく頷く。

 「なるほどね」

 そして言った。

 「もしかしたら、名前が変わってるのかもしれない」

 「名前が?」

 「顔も名前も変わって、本人が昔の名前を意識してなければ――」

 肩をすくめる。

 「その顔や名前では探せないかも」

 シロエは少し考えた。

 「じゃあ、いい探し方ある?」

 セディーは少し目を細めた。

 「死んでなければ、記憶空間は必ず残ってる」

 そして静かに言う。

 「量子空間じゃなくて、記憶空間を対象に探すのはどう?」

 その言葉を聞いた瞬間――シロエの瞳がわずかに光った。

 「……なるほど」

 静かに頷く。意識を切り替えた。量子空間ではなく、記憶の波動を探す。

 すると――

 「あっ」

 シロエの顔が明るくなる。

 「見つかった」

 振り返る。

 「ありがとう、セディー」

 そして笑った。

 「じゃあ、行ってくる」

 次の瞬間。シロエの姿は霧のように薄れ――そのまま量子の海へ溶けるように消えた。残されたセディーは、ぽつりと呟く。

 「……ちょっとヒントを出しただけなのに」

 腕を組む。

 「探し方も教えてないのに、無限の記憶空間から一瞬で見つけるなんて」

 小さく息を吐く。

 「天使になると……こんなことも普通になるのかしら」


 シロエはすでにアカエの量子空間へと到達していた。迷うことなく、記憶空間へ入る。広がるのは、静かな記憶の宇宙。シロエは奥へと進んだ。過去の記憶ほど、光は小さくなる。

 やがて――小さくなった記憶玉の一つに、見覚えのある顔を見つけた。

 「あった」

 静かに呟く。

 「州警察で見た顔……間違いないわ」

 それは確かにアカエ・モレッツだった。

 「けど……」

 シロエは記憶玉を見つめる。

 「どうしてこんなことになったのか、成り行きを調べないと」

 彼女は次々と記憶を覗いていった。そして――真実が見えてきた。

幼いアカエの前に現れた男。「親戚のおじさん」を名乗る人物。男は言った。両親が事故で亡くなった、と。突然の言葉。幼いアカエは泣き崩れた。泣きながら――男の後をついていった。それが、誘拐だった。

 シロエは静かに記憶を追い続ける。その後、少女は男と暮らすようになった。名前も変えられた。

 だが――暴力も、監禁もなかった。普通の家。普通の食事。普通の生活。やがて少女は笑うようになった。そして年月が過ぎる。

 シロエは新しい記憶を覗いた。そこにあったのは――現在の名前。

 イカタ・ファニング。

 住んでいる場所は――メキシコシティ。

 「なるほど……」

 シロエは小さく呟いた。再び過去の記憶へ戻る。誘拐の瞬間。犯人の顔。車。家の外観。現在の生活。学校。すべてを細かく確認する。

 そして――その情報を、すべて記憶に刻み込んだ。やるべきことは終わった。

 シロエはゆっくり目を閉じる。量子の光が薄れていく。次の瞬間。彼女は静かに、通常の夢の世界へ戻っていた。


 翌日、シロエは再び州警察へ足を運んだ。昨日会った巨体の警官の姿を探して、受付ロビーを見回す。しかし、どこにも見当たらない。視線を巡らせていると、背後から淡々とした声が飛んできた。

 「また調べに来たんですか。もしかして……何か重要な案件でも?」

 振り向くと、昨日と同じ、愛想のない女性警官が腕を組んで立っていた。

 「いえ、そういう訳ではありません。ただ……昨日、デスクトップの操作を教えていただいた警官の方に少し話がありまして」

 「ここで待ってて」

 相変わらず無駄な言葉はない。しかし、必要なことはきちんと聞いてくれる。その事実だけで、シロエには十分ありがたかった。

五分ほど経った頃だった。遠くの廊下の奥から、あの巨体がゆっくり近づいてくるのが見えた。そして――その顔には、昨日と同じ満面の笑み。

 その表情を見た瞬間、シロエの口元にも自然と笑みが浮かぶ。軽く手を振った。

 「モレッツさん、こんにちは。私をお探しと聞きましたが……またデスクトップの操作ですかね?」

 のんびりとした声だった。シロエは一瞬、言葉を飲み込んだ。ここまで来て、どう切り出すべきか迷ったのだ。だが――意を決する。

 「あの……ここでは少し話しにくいので、どこか部屋でお話ししてもいいでしょうか」

 「もちろんです。どうぞ、こちらへ」

 案内された部屋は、壁の一面が鏡張りになった簡素な部屋だった。質素で、どこか冷たい空気が漂っている。――取調室。そんな言葉が自然と浮かんだ。

 「すいません。少し暗いですが、この部屋しか空いてなくて」

 モレッツは椅子を引きながら笑った。

 「デスクトップの質問じゃないとすると……何か調査で困ってることでも?」

 シロエは椅子に腰掛けると、大きく深呼吸した。そして、静かに言った。

 「昨日の今日で変な話をすることになります。呆れられるかもしれません。でも――冗談ではありません。本気の話です。ちゃんと聞いていただけますか」

 「はいはい。もちろん」

 軽い調子だった。

 「昨日、一緒に検索した……あの行方不明の女の子のことです」

 「ほう、同性の名前の子でしたよね。もう新しい情報でも?」

 からかうように笑う。

 その瞬間――

 シロエは、何も言わず彼を睨んだ。モレッツの笑顔が止まる。

 「……え、本当に?」

 シロエは、ゆっくり頷いた。すると次の瞬間、彼の表情が一変した。

 「本気で私をからかっているんですか?」

 声の温度が、急激に下がる。

 「一日も経ってないんですよ?新しい情報なんて得られる訳がない。いい加減にしてください。警察は遊びじゃないんです」

 シロエは黙っていた。ただ、まっすぐ彼を見つめている。沈黙が流れる。やがて男警官は苛立ちを抑えきれず言った。

 「冗談に付き合ってる暇はありません。本気で怒りますよ」

 その言葉を聞いても、シロエの表情は変わらなかった。ゆっくりと口を開く。少女の名前。住所。通っている学校。そして、短く言った。

 「調べてください」

 それだけ告げると、シロエは席を立った。部屋を出る足音だけが残る。

 ハンリー・カヴィルは、怒りを押し殺しながら自席へ戻った。だが、パソコンの前に座ったとき、ふと手が止まる。――本当に実在する人物なのか?それだけでも確認してみるか。そう思った。誘拐が確定した事件ではない。公式ルートで調べることはできない。ハンリーはしばらく迷ったあと、スマートフォンを取り出した。

 妻の父親――メキシコシティ警察の警部補。

 ゴコラス・ケイジ。

 「ケイジさん、お久しぶりです。ハンリーです」

 電話の向こうから、低い声が返る。

 「珍しいな。お前から連絡とは……仕事か」

 ハンリーはこめかみを指でかきながら、苦笑した。正直、この義父は苦手だった。

 「ええ、まあ……そんなところです。まだ正式な調査じゃないんですが、メキシコシティの人物に辿りついた可能性がありまして。ケイジさんの権限で、少し調べてもらえないかと」

 「馬鹿野郎」

 即答だった。

 「個人情報を勝手に調べるのは犯罪だ。刑事事件なら正式に手続きをしろ」

 「それは分かってます。でも……あと少しの情報で正式に動けるんです。内容が……四年前の誘拐事件でして」

 その瞬間。

 ケイジの声が鋭くなった。

 「何だと?子供か」

 「はい」

 「年は」

 「七歳か八歳になる頃です」

 そして――

 「馬鹿野郎。先にそれを言え」

 怒鳴り声が返ってきた。

 「少しくらいなら調べてやる。名前と情報を送れ」

 通話はそこで切れた。ハンリーは深く息を吐いた。しかし、その電話が――巨大な事件の扉を開くことになる。

ケイジは情報を受け取ると、軽い確認のつもりで調査を始めた。だが。調べれば調べるほど、奇妙な事実が浮かび上がる。ファニングという男。独身。普通の生活。

 だが――ある時期から突然、子供の記録が現れる。それ以前の記録は、完全に空白。さらに深く掘ると、別の情報が次々と繋がり始めた。そこで、ケイジはすぐにハンリーへ電話をかけた。

 「ハンリー」

 声が違っていた。

 「よくやった」

 「これは国際事件になるはずだ」

 「すぐ動け。これは――お前の手柄にしろ」

 そこから先は、早かった。ハンリー・カヴィルは担当課こそ違ったが、事件の中心人物として動き始めた。子供が関わる犯罪。各機関の動きは異常なほど迅速だった。

 証拠。ルート。関係者。すべてが、驚くほど正確に繋がっていく。

 そして――わずか二週間。事件は完全に解決した。この事件は全米ニュースでも大きく報道された。

 だが。その発端となった人物の名は、どこにも出なかった。シロエは、警察を訪れた翌日にはすでにハンリーから連絡を受けていた。ただし、条件を一つだけ出した。

 「私の名前は出さないでください」

 その代わりに、シロエは断片的な情報を提供した。記憶空間で見た映像。少女がメキシコへ連れて行かれるまでの経路。建物。車。人物の断片。それらは、驚くほど正確だった。

 そして――事件解決の日。ハンリーは最初にシロエに連絡を入れたのだった。


 シロエはテレビのニュースを見ながら、静かに思った。

 ――この力は。アメリカの誘拐事件を、すべて解決できるかもしれない。それだけではない。数えきれない犯罪。数えきれない悲劇。それらを救うことができる。

 シロエは、ふっと笑った。天使としての、新しい仕事。きっと、これから毎日、忙しくなる。だが、不思議とその未来は少し楽しみでもあった。


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