覚醒
目を覚ました瞬間、シロエはまだ夢の余韻の中にいた。内容のほとんどは霧のように薄れている。だが一つだけ、確かな感覚が残っていた。――自分で夢を組み立てていた。
そんな奇妙な感覚だ。それを思い出した瞬間、自然と頬が緩んだ。こんな目覚めは久しぶりだった。個人の探偵事務所を立ち上げて以来、朝というものはたいてい重たい。依頼の心配や未解決の案件が、目覚めと同時に頭のどこかへ居座るからだ。
だが今日は違う。胸の奥まで空気が澄んでいる。「……いい朝」独り言のように呟き、シロエはベッドから軽く跳ねるように起き上がった。
今日は休日だった。だが家にいる気分ではない。軽く身支度を整え、化粧もほどほどにマンションを出る。足取りは自然と軽く、気づけば口元が少しにやけていた。
向かう先は、三キロほど離れた小さなパン屋。プラッドの店だ。
まだ朝日は昇ったばかり。店の前では、プラッドがモップで大きな窓ガラスを丁寧に磨いていた。どうやらパンの仕込みはすでに終えているらしい。
「おはよう。プラッド」
突然の声に、プラッドの肩がびくりと跳ねた。
「お、おぅ……おはよう」
振り返ると、そこにいたのは見慣れた顔だった。
「日曜なのに、えらく早いじゃないか。急ぎの仕事でも――」
そこまで言いかけて、プラッドは言葉を止めた。シロエの表情を見たからだ。柔らかな笑顔。仕事に向かう探偵の顔ではない。
「……仕事の顔じゃないな」
プラッドは口元を緩めた。
「よし。営業はまだだが、特製パンを焼いてやろう」
シロエは小さく首を振った。
「ううん、いいの」
朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
「こんな気持ちいい朝、久しぶりでね。何かしないともったいない気がして……コーヒーだけもらえる?」
「大歓迎だ。パンもつけるよ」
プラッドは芝居がかった仕草でドアを開いた。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください、シロエ嬢」
店の奥には小さなテラス席がある。そこからは、少し離れたトウモロコシ畑がよく見えた。シロエが椅子に腰掛けてしばらくすると、プラッドがトレーを持って戻ってきた。
焼きたての食パン。卵、トマト、レタスを挟んだサンドイッチ。そして、香ばしい湯気を立てるコーヒー。
それを二人分、テーブルに並べると、プラッドは向かいの椅子にどっかりと座った。
「今はもう日が上がっちまったがな」
プラッドはトウモロコシ畑の奥を眺めながら言う。
「あの畑の向こうから朝日が昇るんだ。俺はそれを眺めながらコーヒーを飲むのが好きでね」
カップを持ち上げ、一口。
「毎日の習慣さ。朝日を見てると、不思議と気持ちが落ち着く。それでいて――」
少し笑う。
「よし、今日もやるかって元気が湧いてくる。まあ、自己暗示みたいなもんだ」
シロエはコーヒーを口に運びながら頷いた。
「そういうの、誰でもあるわよね」
プラッドの横顔を見ながら言う。
「私の場合は、お客さんの笑顔かな」
依頼が解決した瞬間。その時の顔を思い出す。
「お客さんは喜ぶし、私もその笑顔でまた頑張れる。いわゆる――」
少し肩をすくめる。
「WinWinの関係ってやつ」
プラッドは視線をシロエへ戻した。
「さてさて」
口元にいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「日曜の朝っぱらから、家から三キロも離れた小さなパン屋の爺さんに会いに来て、コーヒーを要求するお嬢さん」
身を乗り出す。
「いったい何があったんだ?」
シロエは吹き出した。
「ふふっ。また“彼氏ができた”って話を期待してるでしょ」
プラッドは片眉を上げる。
「残念でした。違います」
シロエはカップを眺めながら言った。
「ただね……いい夢を見たの」
「夢?」
「そう。すごく楽しい夢」
少し言葉を探す。
「しかも、自分の思い通りだった」
プラッドは腕を組んだ。
「前にも夢の話してたな。そんなに気になるもんなのか?」
少し眉をひそめる。
「夢占いとか、夢宗教みたいなおかしな施設の者に騙されてないだろうな」
シロエは声を上げて笑った。
「ははは。何それ」
肩をすくめる。
「夢占いで人生変えるなんて聞いたことないわ。あっても絶対加入しない」
「ならいい」
プラッドはコーヒーをすすった。
「夢にこだわってるように見えたから、ちょっと気になっただけだ」
「こだわってる……か」
シロエは少し考えた。
「確かに、今は気になる存在ではあるわね」
小さく笑う。
「でも悪い意味じゃないの」
「夢が気になる存在ねぇ」
プラッドは肩をすくめる。
「目が覚めたら忘れるもんに、そんな興味が湧くかね」
「……そうね」
シロエは一瞬、口を開きかけた。
――量子空間。
夢の中で感じた、あの奇妙な感覚。だが結局、その言葉は飲み込んだ。今はまだ、説明できる自信がない。
「とにかく」
シロエは笑顔を戻した。
「いい夢が見れて、今は気分がいいの。それでプラッドのお店に来て正解だった」
静かな朝の空気がテラスに流れている。
「朝焼けは見逃したけど、まだ空気が澄んでるし静かだし……」
コーヒーを一口。
「この時間、素敵」
プラッドは満足そうに笑った。
「だろ?春先の五時の夜明けは最高だぞ」
「うん」
シロエは頷く。
「来年の春、またこの景色見せてね」
それから一時間ほど、二人は他愛のない話を続けた。やがて店内からパンを焼く準備の音が聞こえ始める。プラッドの仕事の時間だ。シロエは席を立った。
店を出ると、朝の空気が胸いっぱいに広がる。
「うーん……気持ちいい朝」
背伸びをする。
「このまま街に出て買い物でもしようかな」
ふと、思いつく。
「……そういえば」
歩きながら独り言をつぶやいた。
「量子空間で買い物とかする人、いるのかな」
少し笑う。
「そもそも他人の量子空間って入れるのかしら」
興味が湧いてくる。
「他の量子人が何してるのか、ちょっと見てみたいわね」
ポケットに手を入れながら空を見上げる。
「またセディーに相談してみようっと」
そうしてシロエは、街へ向かった。二年ぶりに。新しい服を買うために。
その日の量子空間は——入った瞬間、シロエは思わず声を上げた。
「おわっ」
「何よ、いきなり。びっくりするじゃない」
聞き慣れた声が返ってきた。シロエは目を見開いた。
「……セディー?」
目の前に、一人の女性が立っていた。その人物は腕を組み、どこか楽しそうに笑っている。
「……ははーん」
小さく頷く。
「ついに、私の姿が見えるようになったのね」
シロエはしばらく言葉を失ったまま、黙って三度頷いた。目の前の存在を、まじまじと見つめる。
「セディーって……」
首をかしげる。
「もっと子供みたいな姿を想像してたのに、全然大人だったのね」
セディーはくすっと笑った。
「シロエってやっぱり面白いわね」
肩をすくめる。
「“大人”っていう意味はよく分からないけど……」
少し考えてから続ける。
「あなたの想像とはずいぶん違ったってことね」
そして静かに言った。
「いいことか悪いことかは分からないけど、私は昔からずっとこの姿よ。これからも変わることはない」
「ふーん」
シロエは腕を組む。
「あ、そっか。量子空間は時間がないって言ってたわね」
少し羨ましそうに言う。
「歳を取らないっていいわね。ずっと若さを保てるってことじゃない」
セディーは軽く笑った。
「それが良いことかどうかは分からないけどね」
肩をすくめる。
「これが私にとっては普通だから」
シロエはふと思い出したように言った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「もちろん」
セディーは即答する。
「何でも聞いて」
「前にさ、量子人はそれぞれ好きなことをしてるって言ってたじゃない」
「うん。そうよ」
セディーは頷いた。
「シロエも最近は、いろんなチームから“記憶の食い合わせ”を教わって、自分で夢を作って楽しんでるじゃない」
「そうなんだけどね」
シロエは少し身を乗り出した。
「他の人がやってることを見たり、一緒に出来たら面白いかなって思って」
セディーはシロエの顔をしばらく見つめた。少し考え込む。
「シロエって、本当に新しい事を覚えるのが異常に早いのよね」
小さくため息をついた。
「普通はレベルが上がるほど、新しいことを覚えるのに何度も繰り返すものなの」
指を一本立てる。
「でもあなたは違う。初めて見て、初めて触って、一発成功。違うクリエイターのチームでも同じ。見て、やってみたら成功」
そして静かに言う。
「……今まで失敗したところを見たことがない」
シロエは苦笑した。
「そんなに?」
セディーは肩をすくめた。
「記憶遊びの次は、他の空間に行きたいって言う」
少し間を置く。
「多分、教えたら出来るようになると思う」
「ほんと?」
「ええ、多分ね」
だがセディーの表情には、どこか寂しさが混じっていた。
「でもね」
シロエを見る。
「それが出来るようになったら、もう私とほぼ同等レベルよ」
「まだ出会ってそんなに経ってないのにね」
苦笑する。
「もうお別れの時が来たってわけ」
「けど——」
シロエが口を開いた。しかしセディーは続けた。
「その前に、空間の話をしておくわ」
声の調子が少し変わった。
「空間の数は無限」
「無限?」
「そう。新しい空間は今も増え続けている」
セディーは空間を指さす。
「量子世界は全部つながっている。そして空間の間に距離はないの」
「え?」
シロエは首をかしげた。
「でも歩いたり飛んだりしてるじゃない」
セディーは笑った。
「それは三三三の世界で培った意識が原因」
「自分が歩くと思うから歩くの」
シロエを指差す。
「よく聞いて。シロエっていう存在——本当は形なんてない」
「え?」
「あなたの正体はエネルギー体」
シロエは目を丸くした。
「ちょっと待って。理解が追いつかない」
頭を押さえる。
「エネルギー体って何?」
セディーは微笑んだ。
「今の私たちのこと」
「……会話になってないけど」
セディーはくすっと笑った。
「量子空間は、三三三みたいな物質に囲まれる必要がないの」
「物質?」
「あなたが原子って呼んでるもの」
シロエは目を見開いた。
「三三三の世界では、エネルギー体がそれを纏って存在してる」
「それって三三三だけ?」
「そう」
セディーは頷く。
「私が知ってる限りではね」
「なんで三三三だけ?」
「知らない。三三三では、全てが原子で成り立っている」
肩をすくめた。
「答えはマスターに聞けば分かるかも。会えればね」
「……はぁ」
シロエはため息をついた。セディーは話を戻した。
「とにかく、私たちはエネルギー体。制限なんてない」
そして壁を指差す。
「まずは、そこの壁を抜けてみましょう」
セディーは壁に向かって歩いた。
そして——
何事もないように、そのまま壁の中へ溶け込んだ。まるで水に吸い込まれるように、自然に。次の瞬間、姿が消えた。
「……」
シロエはしばらくその場に立ち尽くした。やがて壁に近づく。手の甲でコンコンと叩く。確かな感触と音が返ってくる。
「これを超えるって……どうやるのよ」
壁を見つめながら呟いた。その時だった。壁の中から、突然セディーの顔が現れた。
「おわっ!」
シロエは飛び上がった。
「びっくりしたー!幽霊みたいな真似やめて!」
セディーは笑った。
「早く来なさい」
壁の中から腕が伸びる。シロエの腕を掴む。
次の瞬間——
強く引っ張られた。シロエは思わず目を閉じた。壁にぶつかる。そう思った。だが、痛みは来なかった。恐る恐る目を開ける。そこは部屋の外だった。
「え……」
振り返る。
「壁を抜けたの?」
セディーはにやりと笑った。
「出来たでしょ」
シロエはまだ信じられない様子で、自分の手と体を見つめていた。
「でも……さっき壁を叩いたとき、ちゃんと手ごたえがあったのに」
コンコン、ともう一度壁を叩く。確かに音も感触もある。セディーは少し楽しそうに肩をすくめた。
「それはシロエの思い込みよ」
「思い込み?」
「ええ。あなたの潜在意識の中に、“壁はぶつかるもの”っていう認識があるから、そう感じるだけ」
セディーは家の中を見回した。
「そもそも、この家だって何もない空間に、シロエが想像して作ったものでしょ」
シロエははっとした。確かにそうだ。この部屋も、家具も、窓も——すべて自分が思い描いたものだった。セディーは続ける。
「だから、壁にぶつかるのも、通り抜けるのも、全部シロエ次第ってこと」
「……」
その時だった。シロエの様子、空気が変わった。
シロエの背中からゆっくりと光が広がる。最初は淡い輝きだったそれは、次第に形を持ち――翼となる。光輝く翼が、静かに広がった。セディーの表情が一瞬で変わる。今まで見たことのないほど強烈な輝きが、シロエの身体から溢れ出していた。
「セディー……私……これ……えっ」
シロエ自身も驚いていた。身体が、軽い。いや、軽いというより——存在そのものが変わっていく感覚だった。純白の光がシロエを包み込み、やがてその光は衣の形を取り始める。
柔らかな光の衣。背中には、ゆっくりと広がる巨大な翼。光でできた羽が、静かに空間へ広がっていく。その姿を見た瞬間、セディーは息を呑んだ。
「……天使」
ぽつりと呟く。次の瞬間。セディーはすぐに我に返り、シロエの前で片膝をついた。シロエはまだ自分の姿を見回している。
「セディー、これどういうこと?」
背中の翼を見上げる。
「なんか……等身大のクリエイターになったみたいなんだけど」
しかし、セディーは答えなかった。膝をついたまま、ただシロエを見上げている。
「セディー?」
シロエは首を傾げた。
「いきなり膝ついてどうしたの?」
セディーは静かに口を開いた。
「シロエ……」
一瞬言葉を止める。
そして言い直した。
「……シロエ卿」
「え?」
シロエは眉をひそめた。セディーは顔を上げる。
「出会った時に言いましたよね」
「何を?」
「あなたが、いつか私を超えるかもしれないって」
シロエは首を傾げた。
「そんなこと言ってたっけ?」
セディーはゆっくり首を振る。
「でも、違いました」
静かに言う。
「あなたは、私を超える存在ではありません」
一拍置く。
「階級が違います」
「……は?」
シロエは腕を組んだ。
「クリエイターの姿になったら、階級が上がるってこと?」
困惑している。
「意味が分からないわ」
セディーは真剣な表情で答えた。
「シロエ卿」
声が少し震えていた。
「あなたは私の二つ上の階級——」
そして言う。
「天使階級です」
空間が静まり返った。
「……」
シロエはしばらく黙っていた。やがて言った。
「セディー」
「はい」
「いきなりそんな態度変えられても困る」
セディーは戸惑った。
「しかし……」
「だから」
シロエは指を立てた。
「立って」
「……え?」
「さっきと同じように接して」
セディーは首を振った。
「それは出来ません」
「なんで?」
「マスターより上の階級の存在に、そんな態度は……」
シロエは腕を組んだ。そして言った。
「じゃあ、命令」
セディーの肩が震える。
「命令は聞いてくれるの?」
「もちろんです」
「じゃあ、さっきと同じように接して」
沈黙。
セディーは動かない。シロエは少し意地悪そうに笑った。
「命令聞かないと罰するわよ」
セディーはしばらく黙っていたが——やがて深くため息をついた。
「……わかった」
ゆっくり立ち上がる。
「本当に、とんでもない天使ね」
シロエは満足そうに頷いた。
「それでいいの」
そして聞いた。
「ところでさ」
翼を揺らす。
「私、どうなったの?」
セディーは少し落ち着きを取り戻し、説明を始めた。
「正直私にも正しい答えはわからない。シロエ、本来の姿を取り戻したとしか言えない」
ゆっくり言う。
「天使から見ると、量子空間なんて、掌の上にあるオモチャみたいなもの」
シロエは目を細めた。
「つまり?」
「出来ないことは、ほぼない。全て自由にできるはず」
シロエは腕を組んだ。
「へぇ、じゃあさ」
ニヤリと笑う。
「人の量子空間にも入れたりするの?」
セディーは即答した。
「何の問題もないはずよ」
シロエの目が輝いた。
「面白そうね」
セディーは苦笑した。
「私やマスターも他の量子空間に入れるけど、それなりの段取りが必要。天使は自由のはず。本来の天使は存在する次元空間が違うから、何とも言えないけど。」
しばらく沈黙が流れる。やがてシロエは伸びをした。
「わかった。何か今日は疲れた。その…天使になった影響かも。明日、色々試してみる」
翼がゆっくり揺れる。
「今日は戻るわ」
セディーを見る。
「また明日ね。明日も居てよ」
セディーは静かに頷いた。量子空間が、静かに揺らぐ。白い翼の存在を見つめながら、セディーは小さく呟いた。
「……本当に、とんでもない存在を見つけてしまったわ。マスターは何て言うかしら」




